「自分の頭で考えるということ」(羽生 善治, 茂木 健一郎)

近頃、羽生善治に関する書籍が増えた気がする。

テーマとしては、羽生善治の頭の中はどうなっているのだろう、

という興味に答えようとするものが多い。


本書も同様。脳科学者の茂木健一郎羽生善治の頭の中を解剖していくものである。

自分の頭で考えるということ
自分の頭で考えるということ

羽生 善治, 茂木 健一郎

大和書房 (2010-09-05)

ISBN: 9784479391999


目次を見てみよう。

第1章 「知性」とは何か

第2章 「進化」とは何か

第3章 「美意識」とは何か

第4章 「勝ち負け」とは何か

第5章 「考える」とは何か

目に見えないリアリティを掴む


視覚が検知する情報は、思考の前提条件になる。

すると、目に見えない動きというものの予測は、自ずと狭い範囲に追い込まれていく。

羽生善治は対局中、考えるときは盤面を見ないという。

頭の中では、相手がこれから打つ手も含めて、予測をしていくのだという。


スマートフォンなどの僕たちの持ち物から始まり、

技術的に、わからないことはネットワークを検索する、という方向に進んでいる。

誰でも、わからないことはない、と言い切れる、傲慢さを勝ち取ることができる。


しかしそれは、よく分からないもの、を自分の頭で考えることをやめる。

予測して、それを検証する工程を省き、よく分からないものについて考える、

本書の言葉を正しく使っているかは分からないが、

予測する過程にある、何かロマンティックなものは、なくなりつつあるのである。


人の感情ですら、ネットワーク経由でたずねることができてしまう。

悩んでいるくらいなら、メールで聞いちゃえば?そうだね。

と言ってメールを出し、いつくるかも分からない、相手からのレスポンスを待つのだ。


8割まで誰でも到達できる


P.35

いろいろなものが実は、「有限の組み合わせの順列組み合わせ」みたいなものになっている。

それに気づいている気づかないかで、かなり人生観も変わりつつあるのではないか。


現在のようなネットワーク社会では、知りたいことについて調べれば、誰も8割程度は理解でき、

なんとなく世界が見えた感じを得ることができる。

しかしその8割は、誰にでも到達できるラインであり、価値などはない。


将棋の世界でも、上が詰まっているのだという。

徹底的に1つのことを調べられる余裕のある素人の方が、

ある場面では詳しいということもあり得るようになっている。


このように、素人が手に入れられた、ほんの一部のプロ以上の知識が、

勘違いをうみ、プロと素人の間に亀裂が入ることがあるだろう。

たとえば教育。親の方が先生より高学歴であったり、専門家だったりするだけで、

偉そうに先生に意見することができてしまう。

「先生を超えたような態度を取る」ことなんかより

「先生という立場を実戦している」ことの方が素晴らしく、社会への貢献度がまるで違うはずなのに。


つまり、実戦している人にまさる立場というものはないということである。

プロというのは、誰にでも8割まで到達してしまえる状況で、

残り2割をどれだけ埋めようかと考えるための実戦からのみ、手に入れられる立場なのだと思う。

そしてやりきること、あきらめないことで、知識の量を質に転化させることができる。


コンピュータにはない、人間の美意識


コンピュータは、そのときそのときの最適解を、

人間が設定(想定)したアルゴリズムの動作によって、

"間違いなく"判断することができるだろう。

そこにある美しさは、"人間が作ったアルゴリズム"にあると言える。


しかし美意識を、このような点におくのであれば、

つまり美意識は人間にしかないと言える。


人間は、自分が考えた判断したことしかできない。

判断の多くは、成功であると信じたいが、ミスをすることがある。

ミスをしたことに気づかないときがある。

ミスに後悔することがある。ミスが連鎖することもある。

不確定要素により、新しい何かが閃くことがある。


このように人に依存するアルゴリズムは無限に作られていく。


プロは判断を誤る可能性を最大限排除するが、

それでもなお、得体の知れない美意識を求めて、ミスを恐れない人たちなのだ。

いや、ミスを恐れているかもしれない。

それでもなお戦う強さを持った人たちだと言えるだろう。

人間は最適解を目指さない


将棋やスポーツなどが生んだ人間の思いとはなんなのだろうか。

僕が本書を読んで考える仮説としては、

人間の心の機微や身体的能力の移り変わりを映し出し、

観察するためのものではないかと思うのだ。


将棋であれば、勝負は、相手どうミスを犯してくれるのか、

相手の美意識は、どこでミスを許してしまうのかのせめぎ合い。

スポーツであれば、相手の身体の限界や、ミスを犯す場面を探しつづけ、

その一瞬をつかみとって成功をおさめようとする。


将棋やスポーツは、人間を平等に動かすことができる環境=ルールによって成り立つ。

そのルール上の最適解を求めながらも、それができない人間を知るための行為なのだと思う。


もっと言ってしまえば、"言語"も同じだ。

日本では、日本語というルールを作って、

人間はルールに従うことで、他者の心の動きを知ることができる。

それも全て、最適解を目指しつつも、

そうできない人間というものを明らかにする行為なのかもしれない。


このような解釈から、コンピュータは、相容れない存在と言える。

容赦のない最適化を求める仕組みで成り立つコンピュータは、

人間と同じルール上には存在し得ないのである。


失敗することと、考えること


将棋でもスポーツでも、プロの世界での勝負の分かれ目は「失敗」である。

プロは、基本的には、過去のデータに基づいて、

ミスをせず、最適な行動を行うことを目指す。


人間はときに失敗をする。

体力的な問題であったり、思考の一瞬の乱れが、失敗を発生させる。

そして、失敗から、失敗しないことまでを考えることができる人が、

勝負に強いと言われる人になるのである。


しかし、情報がデータベース化されていき、いずれ人は、考えなくなる。

考える必要がないのに、あえて考えることはしない。

なぜなら、それは人間にとって最適ではないからだ。

その中で、どれだけ考えることを見つけていけるか、

考える時間を得ることができるかによって、行き着ける境地に違いが出るのだろう。


簡単な言葉で言ってしまえば、あきらめないこと、に尽きてしまいそうであるが、

それは最低限やるべきことであり、その上で自分がどう考えていくかだと思う。



自分の頭で考えるということ

自分の頭で考えるということ