2人はプロフェッショナルと言われる人たちの中で、かつ幅広い分野で活躍している人である。
素人からみれば、携わっているすべての分野が専門のようにも見えるが、
彼らにとっては"専門はない"という見解になる。
彼らのように、あらゆるものに興味を抱いて生きる、
いわゆる万能型、クロスオーバー型の人間を、ルネッサンス人と呼ぶ。
器用貧乏、なんでもできるけど、なんの名人でもない、と言われることもある。
世の中で生き残ること可能性が高いのは、ルネッサンス人であると言える。
今僕が専門としている分野(土台)で活躍できなくなったとき、僕には何が残るだろうか。
土台そのものが崩壊した場合、どう新しく生きていくか、考えると悲壮感が漂う。
本書の目次を紹介しよう。
第1章 分断の芽生え
第2章 学問の分断
第3章 発想力を強くする
第4章 考える力
対談1 危うさに対する感受性の欠如
対談2 見ている方向は100年後
■境界と分断
竹内薫は、子供の頃に海外に移住し、また日本に帰ってきた帰国子女である。
自由な社会と閉鎖的な社会のパラダイムシフトを2回味わっているのである。
そして、その中で出会った良い先生により、今の自分がいるのだと語っている。
子供時代に、日本の学校にいた海外からきている生徒への、明らかな差別を見て、
世の中は何かしらの"境界"があり、"分断"されているのではないかと気づく。
堀江貴文も、「そこまで言うか!」などで、
金持ちの子供が優遇されているのを見て、分断された世の中の仕組みを知ったと語っている。
しぶとく生きる能力を持った人というのは、世の中の"境界線"が明確に見えているのではないかと思う。
■文系と理系
竹内薫は、東大の法学部(文科一類)に入学しながら、いわゆる理系である物理学へ舵を切り替えた。
しかし、その壁はものすごく高いという。
10代のときに感じなければいけない壁としては、高すぎる壁が。
文系と理系の分断は、"抽象と現実の世界"や"数学と物理の壁"に繋がる。
物理は、現実から抽象へ向かい、現実を検証するために、抽象的な概念の定義を使う。
数学は、抽象的な世界を、まるで神の視点で上から構築する。
イメージで表現するのであれば、
物理は、どろどろした世界。検証、抽象化の過程で失敗する可能性がある。
数学は、美しい世界。なぜなら、ないものを構築する神的な行いだから。
アメリカの科学は輝いているという。
聖書や宗教との対立があり、科学が緊張感を持ち存在する。
また、その科学をわかりやすく説明するプロ、サイエンスライターがたくさんいて、
一般の人が科学を知り、科学者やサイエンスライターを尊敬している。
エッセンスの理系、ディテールの文系
文系センスでは文章のアウトプットは感情的であいまいで、ゆえに読解の余地が大きく、それをインプットする際にはディテールにこだわらざるをえない。
理系センスでは文章のアウトプットは論理的で補足が長く、ゆえに読解の余地は少なく、それをインプットする際にはエッセンスだけを抽出して使えばいい。
もし理系、文系の"性質"を端的に表すなら、この表現が一番合っていると思った。
読書スタイルでいえば、理系は乱読、文系は精読。
理系はそれが曲解だろうと、自ら"創る"ということに抵抗がない。
文系は正確さを求め、曲解をあまり受け入れない。
これが人間の性格だ、と言われれば、そうかもしれない。
別の角度から見ると、理系は役に立つエッセンスを得られれば満足で、雑食傾向がある。
文系は、その作品というものに対して、細部を理解できると満足なのだと思う。
どちらが悪いではなく、趣味の問題であると思う。
歴史的な数学の第一人者の多くは、哲学者でもあったり、
絵画や文学も第一人者であることが多い。
ロマンチストである方はどちらか、という見方をすると、
僕は理系の方にロマンを感じるのである。
少し僕のことを振り返ってみよう。
高校くらいから、"文系"と"理系"という言葉が飛び交い、徐々にどちらかに進むことを求められていく。
僕自身が高校生だった頃、意味が分からなかった。
オレは文系!、オレは理系!などと騒いでいる他の生徒の意味がわからなかった。
深く考えない性格だったのかもしれないけど、未だに僕は、文系か理系かわからないのである。
文系とか理系とか、意味不明かつ衝撃的なレッテルを10代で貼ってしまうと、
その後の人生も、自分に何かしらのレッテルを貼っていくのが当たり前になってしまうのではないだろうか。
僕は少なくとも理系、文系に関して、よくわからないまま終わった学生生活は、わりと良かったのではないかと思っている。
思考のレッスン