「赤毛のアン」(モンゴメリ作/西田佳子訳)アンの変化とマリラの成長、そして救済

世界の名作として名高い「赤毛のアン」を読みました。

原題は「Anne of Green Gables」「グリーンゲイブルズのアン」でしょうか。

日本で最初に訳した村岡花子が「赤毛のアン」とつけたとのこと。

その村岡花子訳の文庫もありますが、読みやすそうな西田佳子の新しい訳を読んでみました。

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苦しむのではなく、努力をする。/「優雅な肉体が最高の復讐である。」(武田真治)

 武田真治の肉体作りについて書かれた本「優雅な肉体が最高の復讐である。」を読んでいる。ぼくが自分もやっている筋トレについて言いたいことの全てが書いてあるといっていいほどに共感できる内容だった。

 この本の筋トレなどを始めるときの注意としても書いてあることなのだけれど、ぼくは筋トレやランニングをしていることを誰にも言わなかった。今はもう痩せ終わって、筋トレも維持に入ったので、機会があれば話してもいいと思うのだけれど、人に宣言したりすると、言ったからやるみたいな、変な気持ちになりそうだった。
 会う度に痩せて肉体が変わっているぼくにツッコミを入れるのは親くらいで、会社の人などは気づいてなかったのかもしれない。もしくは気づいていても、病気か何かかと思って何も言えなかったのか。今聞かれたとしても、激務で痩せたとか、いつのまにか痩せてたとか、まともに取り合うつもりもなかったりするのだけれど。
 なぜ筋トレなんかを始めたか。正直よくわからない。ダイエットが終わってやることがなくなり、筋トレを始めたという記憶はある。ダイエットの目的も分からない。スーツや服を全部捨てなくてはいけないくらいになり、そういえば家にある物を捨て始めたのも、ダイエットを始めた時期くらいだった。そのあとは筋トレをやり過ぎと感じた頃にランニングを始めて、今に至る。ダイエット含めて正味4年くらいだろうか。
 体型としては、身長168cm、体重67kg、体脂肪率25%から、体重が53~56kg、体脂肪率が7~10%になった。もうこれ以上痩せられないから、筋トレとランニングで維持している状態といえる。
 正直、これまでの人生において、自分の意思でやればできることなんて、肉体作りくらいしかなかった。もちろん今でもそう。このブログはもうすぐ更新し続けて1年になるのだけれど、いまだ納得できるような状態ではない。1年じゃ足りないのだろうと思うし、自分の中でブログの達成感の定義ができてないから納得のしようがないともいえる。
 「我慢じゃなくて努力する」と武田真治はいっているが、ぼくは、「苦しむのではなくて努力しよう」と言いたいと思う。苦しいということは楽しいということと相反することだけれど、努力することは楽しいといってもいい。楽しく努力することができる。苦しいことには何か理由があるけれど、努力することに理由はない。筋トレもランニングも、なんの理由もなくやってしまう。冷静になるとなにやってるんだろうと思う。でもやっぱり自分の体を感じれば、やって良かったと思える。こんな感じで、得意げに人に話せるようなことではないけれど、この本を読んで、肉体作りは楽しさを見つけられることだと、紹介が出来るようになれそうな気がした。

さわってときめくものだけを持つ。 /「人生がときめく片付けの魔法」(近藤麻理恵)

 片付けの本として有名な、近藤麻理恵(こんまり)の「人生がときめく片付けの魔法」を読んだ。
 ぼくとしては片付けが落ち着いた今、今さら感があるけれど、気になっていたので読んでみた。ぼくはどうも、自分で実行しているうちは学ぶ気がないらしく、自分でそれなりにやってから、確認するかのように本を読む。
 実際に読んでみると、そうそうって相づちを打ちながら、面白いほどに納得できる。もちろんすべてではないけれど、ぼくの感覚に通じるところがたくさんあるのだ。
 触ってときめくものを持つ。これは、ゆるりまいの持ち物にも言えると思う。コンセプトは、寝る前に目の前に置いて眺めていたいもの。なんでこんなもの持っているんだっけ?と少しでも疑問を持ったら捨てる。
 こういう実用書は、やり方を学んだりやる気を出すために読んだりするのが主流だと思うけれど、自分がやっていることの確認のために読むというのも、1つの読み方になるのだと思った。

最初は分からない本も、何度も読めば分かるようになる。

 今日はとても大事なことを思い出した。

先日「ハックルベリー・フィンの冒険」を読むのに難儀していると書いたのだけれど、今日から2回目を読み始めたら、急に頭に入ってくるようになっていて驚いている。

 驚いたことと同時に、この体験はすでに知っていることだということも思い出した。

 ぼくの学生のころの勉強方法は、とにかく教科書や資料を読む、それも何回も同じものを読みまくる、という方法だった。それで特別すごい成績ではなかったけれど、普通以上の成績ではあった。しかしそのせいで歴史などの読み物でしかない科目が得意で自分は文系だと思い込んでしまった。面白そうなのは数学でも得意だと思っていたのが歴史だったため、現役では文系の学部に入ってしまったのだ。その後数学科のある大学に入り直したのだけど、読んで学ぶという方法は変わっていないことに気づくことになる。学問において、最先端の仮説・実証の段階である部分を除くと、どんな学問も既にあることを学ぶことになる。もちろん素晴らしい教授に出会ったり学友に出会うことが、学びの実践では大切なことかも知れない。それでも既にある書物を読むことに変わりはない。

 最初はどんなに分からないことも、何回も読めば理解できるようになる。ぼくはそういう体質だったことを思い出した。学生時代のことを考えれば、なぜ何回も読めば分かるようになるかというと、それは積み重ねてきた知識を活用できるからだということがわかる。逆に得た知識を活用できなければ、何度読んでも理解は変わらないだろう。今回の小説にしても、2回目では一度読んだ内容を元に読んでいるから理解が進む。小説は結末を知っていたほうが安心して読めるという人がいる。そのくらい前提知識が読書の理解を大きく左右するのである。

手記という自分語り / 「創 2014年 08月号」

 放火魔くまえりこと平田恵里香の獄中からの手記の一部が「創」のサイトに公開されていて、続きが読みたくなり雑誌を買って読んだ。すると、黒子のバスケの事件の渡辺博史の手記も載っていて、こちらも思わず読みふけってしまった。
 正直両方とも事件のことは詳しく知らなかったのだけれど、まず2人の書く手記があまりにもちゃんとしていて驚いた。編集者がどれほど手を入れているのか、入れていないのか。手書きで書かれた原本の写真があるくらいだから、自分で書いていることは確かなのだろうけれど。それに、そもそもちゃんとした文章を書けない人の手記などを受け取っても載せないのかもしれない。
 
 2人とも幼少の頃からそれなりに特異な人生を歩んできていて、結果的に犯罪を犯し逮捕されることで、自分がどんな人間だったのかを理解し始めている。犯罪に手を染めているときは、何も知らないということになっている。
 本人が書いている子供の頃のことに本当のことがどれだけ書かれているか分からない。犯罪を犯している時点では、それまでに積み重なった経験により、犯罪を起こすことを正当化するために解釈していていたのだろうし、今となっては、それまでの経験が犯罪を犯す原因だったと思うけれど、それが分かったので自分は変化したという解釈をしている。そして将来、刑期を終えて社会に戻ってきたときには、またそのときなりの解釈をするのだ。そのとき彼らはどのような解釈をするのだろう。想像がつかない。
 
 手記という自分語り。「創」では、香山リカ斎藤環による解説が載っていたけれど、これは更正の一環として解釈されるものなのか、それとも手記を書かせるということそのものが更正プログラムの一環なのだろうか。わからないけれど、これからも獄中からの手記というものを読んでみたいと思った。