ぼくはあまり「あたりまえ」のことを言ったり書いたりしたくないと思っていた。
会社関係では「会社のためになるという意味で、あたりまえのことしか言わないしやらない」ことから、楽をしている気がして、ぼくにとって決して楽しいことが多い場所ではないと思うようになっていた。これは子どもの頃からかもしれない。何かの受け答えをするときに、何か良い受け答えがないかとうんうん考えている間に、「普通に答えりゃいいだろ」と言われたことがある。そのときぼくは心のなかで、「普通に答えても面白くない」なんて思っていて、誰も期待していないことに、応えようとしていたのだと思う。
ぼくが目指していたことは、予測を裏切り期待に応えることなのだ。
しかし普段のぼくは、されてもいない期待に応えようとしているようである。もしかしたらこのブログも、普通のことを書いても面白くないから、延々と「ぼく」が主語の文章を書き続けている。自分が主語にならない文章を書くのが怖い。もしくは嫌なだけ。会社が主語になる文章は会社にいるために必要だから、嫌でもやるしかない。会社への貢献感を得るために、ぼくは会社を主語にすることができる。これと同じように、例えばこのブログにおいても、自分以外を主語にすることで、貢献感を得ることができるかもしれない。それは何かというと、考え得る一つとしては、いわゆる啓発、啓蒙の類である。書いていることは啓発なのだと思えば、自分のことはさておき、あたりまえを語ることができる。
世界で一番普及している書物である「聖書」も、その次に普及している「
星の王子さま」も、いってしまえば啓蒙書である。読んだ人が「ためになるいいことを知った」という満足感に浸らせる書物が、世界中で最も認められているものなのだ。映画でも小説でもそう。人の振り見て我が振り直せではないけれど、映画の登場人物が窮地に立たされて死んでしまったり、またはそれを乗り越えるところを見て、人は感動する。この感動に置ける「いいものを観た」は「いいことを知った」と言い換えることもできる。
本や映画などで表現される教訓めいたものは、よくよく振り返れば「あたりまえ」のことばかりだ。正確に言えば、言葉にしなければ分からない「あたりまえ」のこと。映画や小説の感想などで、すこし斜に構えながら、「あれは深層心理ではこうだからこうならざるを得なかった」といった文脈で語っている人がいたりして、それに対して頷く人たちも多いことから、教訓や啓蒙らしさを物語っている。ちなみに、こういう文脈を嫌う人もいるけれど、そういう人は、物語の本質を理解しようとせずに感性で曲解していることが多いように思う。
さらに言ってしまえば、人間はずっと昔から同じようなことに感動して、同じような教訓を得て、そのたび喜んで生きているとも言える。そして、その感動や教訓を提供する
表現者は、先人から学んだ自分が知っていることを、自分なりの解釈と物語で捉え直しているということになるだろうか。
ということは、
表現者がやっていることは、「知っていることを教える」、ただそれだけなのかもしれない。もちろん、知っているからなんでも形にできるかといえばそうではない。自分が知っていることを形にできるか人と、形にできない人がいる。形にしたい人、形にしたくない人もいる。自分が知っていることに対してどういう姿勢で臨むかは、運命としか言いようがない。ぼくは何か覚えのないきっかけで、読むこととで感動して、書くことでぼくと同じような感動を与えたい、さらには貢献したいと思い始めた。
しかし今の状態では何もできていないのだから、どこかで自分は変わらなければならないことはわかっている。運命を変えることができるのは、
アドラーに言わせれば、「勇気」だけだという。貢献するためには、「勇気」が必要だ。その「勇気」にこそ生きる価値を見出すことができるのだと信じることができれば、ぼくでも動き出せそうな気がする。