「誰もがみな、自己の人生を滅ぼし、未来に憧れ現在を嫌って悩む」(セネカ)を、改めて考える。

アドラー心理学では、「人生に因果はない、あるのは今を生きる目的だけである」、というのが基本的な考え方である。「過去」はすでに与えられているものであり、「今」には全く関係がない。ぼくがアドラーに感嘆した理由は、この時間的な感覚である。
 
ぼくは以前(数年前)、セネカの「誰もみな、自己の人生を滅ぼし、未来に憧れ現在を嫌って悩む。」という言葉に出会い、以降、ことあるたびに思い出していた。これは、後悔している過去と未来への憧れとのギャップに、どうにもなれない現在を嫌って悩んでしまうということを言っていて、ぼくはこの感覚にとても共感していたことから、自分が悩むことを当然のこととして受け入れていた。
 
アドラーであればこれを、「どうにもなれない自分となる目的のために、過去を後悔して未来に憧れようとして、そんな自分のことを嫌になって悩んでいる」という解釈になる。
 
過去の自分と憧れる未来とのギャップに苦しみ続けて前に進めないという悩みは、「現在をどうしようもなくする」という努力をするために、自ら悩む努力をしていると捉えたら、自分は何をやっているのだろうと思ってしまう。今この瞬間を「どうしようもない」と言いたいがために、「過去」を後悔しようとして「未来」に憧れようとする自分に気づくこともできる。
 
「過去」は変えられないし、「未来」は分からない。唯一変えられるのは「現在」だけである。だから、「過去」を変えようとすることは間違っているし「未来」を分かろうとすることも間違っている。「現在」を生きるにおいて、やってはいけないことだ。しかし「現在」だけは、変えようと思えば変えられるし、分かろうとすれば分かる。
 
ここで因果という言葉を使えば、「現在」は「過去」との因果に関係なくやってくるもので、「未来」もまた、「現在」の因果に関係なくやってくる。だとしたら今この瞬間のぼくは、今だけを生きれば良いということになる。
 
猫だ。いきなりだが、猫を思い出し。よく猫を好きな人が、猫のように生きることができない人間のことを説明するときに、人間だから感情があり過去や未来の感覚があるから猫のように「今」だけを生きられないということを言う。これもまた、アドラーに言わせれば間違っている。人間だって猫のように、今この瞬間だけが、自分の全てなのだ。
 
そんなことを言われても、人間なんてそんなに簡単じゃないと思うだろう。変わるために必要なことは1つだとアドラーはこう言っている。それは「勇気」だけだと。「勇気」って、と思うけれど、思えば生きる上で「勇気」を出すなんて考えもしてこなかった。だからぼくは「勇気」を馬鹿にすることができない。ぼくがアドラー心理学に納得して受け入れて、もし実践をするなら「勇気」を出さねばならないだろう。
 
立ち戻れば、セネカの言葉に対しては、納得して受け入れて、悩み続ける自分は変わらなくても良かった。だから、これからのぼくが、悩まないことを目的に生きようとすると、苦しいのではないかと思う。しかし人生の生き甲斐というのものは、楽をすることではない。だとすれば、楽をせず、勇気を出して苦しむという選択は、呪われたように悩みながら、楽しいことも生き甲斐もないと思っていた自分を変えることができるかもしれない。