新居の様子

 明日の朝引っ越しをするので、今日が今の家で最後の更新となる。
 今日は新居に行ってきて確認と軽く掃除をしてきた。引っ越しの箱が逼迫してしまったため、軽いトイレットペーパーとティッシュだけキャリーバックに詰めて持って行った。もう少し物を減らしたかった。毎日ゴミを袋単位で作っているけれど、それでもまだ物がたくさんある。ここ数日は新居に行ってから捨てればいいやと思い始めてしまっている。 電気と水道は出て、なぜか明日契約のガスも出たのだけど、請求は明日からだと思うので使わないようにした。電気やエアコン、シャワー、トイレの動作確認を行い、あと今日は無印良品で掃除道具を買ってきて、軽く掃除をした。7畳半の部屋とキッチンや風呂・トイレだけなので掃除は簡単だ。今の家で実際に使っているスペースを考えれば、妥当な広さだと思う。1点不可思議なことといえば、非常用の梯子が戸棚に入っていたのだけど、戸棚の扉が邪魔をして取り出せないという状況だった。これはドライバーを使って扉を外せば良さそうなので明日対処する。前の住人は、邪魔だから戸棚に押し込んだのだろうか。
 また掃除した後にフローリングに寝そべると、すぐに昼寝に入ってしまった。ぼくは固い床でも眠れる体質のようで、2,30分で起きたいときは体が痛くなる床で寝るようにしている。明日は引っ越し、新しい家に物が入ると雰囲気がどう変わるだろうか。楽しみだ。

誕生日だった。

 気づいたとき少し笑ってしまったのだが、先日9月7日はぼくの35歳の誕生日であった。9月7日のブログを見ても何の言及もなく淡々と引越しのことを書いている。クリスマスも正月もずっと同じようなテンションで書いてきたのだから、ブログとはそんなものなのかもしれない。まあ35歳にもなると、あまり年齢など意識しなくなるものだろうか。

 30台は20台後半から下降してくる体力や知力をなんとか維持しているつもりで、むしろ身体的にはパワーアップしている気がする。少なくとも下降していくものを維持しているということは、身体的にも精神的にも進化しているということだといえよう。維持できないのは髪の毛だけだけど、20台半ばにはすでに後退していたと記憶する。

 今日、引っ越しの時間が決まったことで、ほぼすべてのスケジュールが固まった。明日は新居に行って、電気と水道の確認と少し掃除をするつもりだ。35歳の船出は引っ越しであった。良い40歳を迎えられるように精進したい。

契約書をじっくり読む。

 新居の契約書が郵送されてきたので読んでいる。郵送になったのは先方の都合で対面で契約する時間が取れなかったからなのだけれど、おかげで契約書をしっかり読むことができている。そういえば社会人になって唯一良かったと思うのは、こういう契約書を読もうとする力を身につけたということかもしれない。
 ぼくの場合、猫を飼育することから、入居するにも退去するにも、普通よりもお金がかかる。しかもそれが家賃の何ヶ月分という計算だから、10万単位でぐんぐんと値上がりすることになる。敷金償却分は仕方ないにしても、残りの返還される分+精算金でなんとかならないものかと確認している。
 もちろんもう入居しないという判断はないのだけれど、退去時のことは頭の片隅においておかないといけない。物を買うときに捨てることを考えておくのと一緒だ。これまで準備してきたから思い立ったらすぐ引っ越せるように、次の家でも身軽に動く準備はしておきたい。
 住宅の賃貸借については、今回初めて学んでいるところもあり、わたわたしているけれど、やってみないと分からないことが多くて、短期間で済ませてしまって良かったと思う。よくわからなくて気が気じゃない期間が長くなればなるほど、疲弊して妥協してしまうに違いないから。

価値観を押しつけるとはどういうことか。

 「価値観を押しつけるな」という愚痴のような叫びのようなものを見ることがある。そう言葉にするということは、そう思って生きているのだと思う。
 ぼくにはその、価値観を押しつけられるという意識が理解できなくて、うまく消化できないでいる。消化しなくても放っておけばいいのだけど、ぼくは、価値観を押しつける人や価値観を押しつけられるという人のことを知りたい。
 煙に巻くようなことをいってしまえば、そういう人は、「価値観を押しつけられている」という価値観を持った人なのではないだろうか。もしくは、環境の問題や外的要因のことを「価値観の違い」と勘違いしてるのではないかと、ぼくは考えている。
 例えば、家庭のなかでの父や母の言葉というのは、ぼくが子どもの頃は、親が勝手に言っていることでしかなかった。父母の人生や家庭の状況は子どものぼくにとっては、生活の前提条件である。お前は私立の高校なんかに行けるお金はないよと言われていたから、その前提条件でやっていて他のことはよく知らなかったし、もしお前は私立の名門に行きなさいと言われれば、きっとその前提条件でやっていたに違いない。もちろん違う人生のことは、今までの自分の生き方の態度をみて、そうなっただろうとしか言えないのだけれど。
 価値観なんて、本当は誰も口に出して言っていない。他人の価値観だと思って見ているものは、その人が他人に見せたい自分の態度のことだ。受け取る側がそれを価値があるものだと感じるから、相手のその言葉に対して価値観を押しつけているなんて思う。支配的な親、支配的な恋人、支配的な配偶者、こういう人はきっと、自分の立場を相手にとって価値のあるものだと信じ込ませる能力を持っている。そして信じ込まされている人、子どもなどはその典型だろう、支配されている人から見れば、支配している相手は自分の価値観を他人に振りかざしているように見える。
 想像するけれど、よくわからない。ぼくがいま話していることも、人によっては価値観ということになるのではないかと思ってしまうし、そもそも価値観という言葉の心理的な定義すら他人とは分かり合えないということが正しいことなのかもしれない。

月額200円(minikura)の価値を考えている。

 月額200円の価値というものを考えている。月額200円というのは、minikuraに1箱分の物を預ける月額料金である。この毎月200円で空間を買うということの価値が、いま自分の中で明確になってきているのではないかと思っている。
 月額で料金がかかるもの、光熱費を筆頭にインターネット回線や携帯電話、その他いくつかのサービスを使っている。例えば、今はフレッツにひかり電話をつけて03から始まる固定電話の番号を持っているのだけれど、今回それをやめることにした。次の家でもフレッツ(今度はマンショタイプが使えた)を新規で申し込んでいるのだけど、今は固定電話がなくても問題なく契約を進めることができる。最寄りのコンビニなどの固定電話を入力するとフレッツ回線のエリアがわかるらしい。つまり固定電話はすでに連絡先としては機能しておらず、フレッツ回線が届いているからの確認でしかないのだ。パスポートも今は携帯電話の番号で良くなっているというし、固定電話の重要度が下がる=いつでも止められるし番号を変えられるということになるので、固定電話を持つことによる信用も低くなっているということだろう。むしろ携帯電話の契約のほうが審査を通っているので信用が高いといえる。
 話しはそれたが、ひかり電話の基本料金は月額500円である。この500円、正直維持するには安いと思う。しかしminikuraの2箱分と考えると一気に価値が高まってきて、毎月500円を無駄に使うのはやめようと考えていた。
 月額200円の価値がものすごく上がっている。生活においては色々な契約をして、月々の支払いをしている。それによって受けている恩恵はそれなりにあるのだろう。しかしそれが自分に本当に必要かどうかを考え、毎月数百円だから維持するのも楽だと思っていたサービスの価値を見直す良い機会になっている。