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自由に近づくと、幸福から遠ざかる。

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 自由は幸福か。自己認識の世界において、幸せと感じることができるか。ぼくは自由を手にしようとすることは、幸福を手放すことではないかと思う。
 極端な例としては、最近、自由を手にした犯罪者のことを「無敵の人」と表現することがある。犯罪を犯しても誰にも迷惑をかけることがないと思っている人のことをいう。無敵の人は自分がなく社会性がない。社会というものが自分の外側にあり、さらにその社会を敵とみなし、攻撃することができる。社会性を持った民という立場からも自由になってしまったということだ。軽い例でいえば、すこし前に大学の試験でのカンニングが話題になった。そのとき人によっては、いまどき暗記など必要ないググればいいじゃないかと、ルール破りをしてもいいと思ってしまう人が出てきたけれど、これは自由をはき違えているだけだった。

 最初に書いた幸福の話しを戻ると、幸福についても「無敵の人」のような状態に陥る。自由を手にすると、求める幸福の度合いが際限なくなってしまうのだ。きつい言い方をすれば、身分をわきまえられなくなる、と言えば良いだろうか。たとえば、自分よりも幸福そうな人や、成功している人を見たときに、自分もこうなっていたはずだ、と思うようになる。しかもそれが、ちょっとした違いでしかない、それも運とかボタンの掛けちがえとか、その程度の違いだと思ってしまう。こう思うのは自由だけれど、端から見れば、自ら幸福を手放しているようにしか見えない。
 家族というものを考えると、かつて男女の結婚率が高かった時代は多くの人が似た生活をしていて、世間で合意された家族感があった。つまり社会と家族という枠のなかでの幸福を求めて、ほとんどの人が「まあ、これでいいか」と思っていたのではないだろうか。今はこの「まあ、これでいいか」を合意できる人が少なくなってきている。一定の幸福に合意できる立場にいない人のことを自由といっていいのか分からないが、その多く人は自分が自由だと思っているかもしれないのだ。
 そうやって幸福の上限が開放されてしまった結果として、夢が現実になる可能性が開かれてしまった。人生に成功や失敗があるという考え方に世間が合意するようになり、それは運とかボタンの掛けちがえとか、その程度のものだと成功した者がより成功するために語る。こうして格差社会となっていくのだ。
 色々あってまとまらない。自由や幸福の意味を掘り下げたら身がもたない気もする。そんな自分はどうなのかというと、こんなこと知りたくなかったなあ、という感じである。目の前のやるべきことに追われて、大変な生活を送ってみたかった。盲目でいたかった。それが自分の幸せだと思いたかった。