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思い出があれば、それで十分。

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 ふとしたときに思い出す記憶。記憶をたぐり寄せているつもりはないけれど、不意に記憶が思い出されたとき、現在進行中の心や動作が止まってしまう。

 「なにを考えているか分からない」

 むかしのぼくは、よくこう言われていた。

 いまのぼくは、どうだろう。わからない。

 こう言われていたときのぼくは、口に出さない(口に出せない)記憶のなかにいた。

 「むかしのことを思い出していた」

 なんてことも言えない。言えばいいのに。言えなくなる。

 でもこれからは言おうと思う。

 なんとなく言えたらいいなと思う。

 考えていることを、ばか正直にいわなくてもいい。

 ふわっとした話しを、にこやかにできるようになりたい。

 「あのときはこうだった」と、定点観測的に思い出を置き去りにしてきてしまった。置き去りにされた記憶は、その形をそのまま留めることができず、美化を繰り返す。美化された記憶は、バランスが取れた状態で保持される。

 今のぼくの記憶、思い出は、今までの自分によって形作られたものだろう。

 ぼくには記録がない。日記を書いてこなかったから、事実を覚えていない。

 ぼくは日記のように事実を書き残したとしても、それを見ることはできないかもしれない。

 そしてもし日記を残していたら、振り返られるものがあるけれど見られないという状況に翻弄されるかもしれない。そんな開けない日記でも、捨てることもできないだろう。

 あるものを捨てるには、それなりの覚悟がいる。今どこにもぼくの日記がないように、最初からなかったものは、どうしようもない。

 それは、モノも記憶も同じだ。捨ててしまえない自分を捨ててしまいたいと思うけれど、それにはやっぱり覚悟がいる。

 人生は、思い出があれば十分だ。形のあるものに頼らなければならない記憶は、きっと必要ないんだ。