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体験が報酬になるはずがない。

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体験が報酬になるはずがない。報酬のない仕事をさせることは、やりがい搾取とも言われる。もしくは報酬というものを曲解して合意させている。報酬とは、正確に言えば。労働や物の使用などに対するお礼の金銭や物品のお礼のことをいう(大辞林)。つまり体験は報酬ではない。なぜなら体験だけでは、普通の人は生きることができない。親に守られていたり、資産があったりして食べる手段が別にあればそれでもいいけれど、そういう特別な人以外は難しいだろう。特別でない人は、報酬にならない体験をして、それが価値のあることだと押しつけられて、苦しい生活をせざるを得なくなっているだけだ。こういうことをネット上で言われているうちはまだいい。これを一般化させてはいけない。こんなことから学んでビジネスを始めている人たちに引っかかってはいけない。

話しは変わるけれど、ぼくは道端で募っている募金は絶対にしないことにしている。特に、元気に募金を募っている子共や、みすぼらしい格好で募金をしている人たちにはいなくなって欲しい。社会に守られている子供がボランティア精神を植え付けられている姿や、みすぼらしい格好をしてボランティア精神にまみれている姿が気持ち悪い。

なぜこんな風にぼくが道端の募金を気持ち悪いと思っているか、これには理由がある。学生のころ、秋葉原か渋谷か川崎の道端で募金活動をしている女の人に話しかけられて、気弱なぼくはその人が持っている箱にお金を入れた。悪いことではないと思った。しかしその直後、ぼくは腕を捕まれて、何か名簿みたいなものに記名しろと言われたのだ。しかも連絡先を書く欄まであった。グレーかベージュの服で髪の毛が整っていないおばさんが、ぼくの腕をつかむのだ。怖いに決まっている。お金を入れて理不尽なことに巻き込まれたと思った。当時のことをはっきり覚えていないのだけれど、ぼくは咄嗟に嘘を書いたと思う。もしくは逃げた。逃げたような気がするし、何かを書いた気もする。本当のことを書いたような覚えもある。今となってはどうでもいいことなのだけれど、ぼくはこの瞬間、道端の募金には一切関わらないことにした。

こんなことで募金をしなくなるなんて、心が狭い人間なのだろうけど、ぼくにとって道端に立っている素性の知らない人を経由して募金をすることは、お金を渡して得られる体験としては、ネガティブなものでしかないのだ。やりがいというか善意という感覚もない。ちなみに素性がはっきりしている募金は、気がついたときにはしようと思っている。そもそも道端で素性も知らせず募金を募るなんて、馬鹿にしているようにも思えてくる。

しかし体験が報酬になるということを正当化すると、募金を募っている彼らは、もしかしたら募金を募るという体験を報酬に、もっと大きな力に動かされているだけかもしれない。そうでないとしたら募金から給料が出ているはずだ。ここで言い訳として考えられる、給料は募金以外から捻出しているというのは通用しない。なぜなら募金活動をしなければ、募金を集める仕事をする人を雇う必要がなくなるのだから、人を雇わないと募金活動ができないのであれば、給料は募金の一部を使っているはずなのだ。

体験が報酬だということができボランティアや創造を正当に評価できる社会というのは、制度として認められた階級の中で、階級の上の層がボランティアや創造をするような社会か、もしくはベーシックインカムのように全員が平等に何も生活できる土台が与えられて、それでもなおボランティアや創造をするような社会でなければならない。つまり体験もボランティアも前提条件が曖昧な言葉でしかない。