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所有されない寂しさ

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2012年4月頃に他のブログに書いていた記事を今の文体にブラッシュアップした。この記事を見つけて、モノを持つということに関してこの時点では間接的ではあるけれど、意外と前から考えていた。

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物を所有するということは、その物に気持ちを持つということ、つまり自分の一部を預けること。預けられる存在を見つけることで、寂しさを忘れる。

ここでいう所有物というのは、感情や気分を向けられる物体のほかに、文章や知識、愛する人も含む。物体としての所有も、知識としての所有も、他人の人格の所有も、自分が書いたものも、ぼくをぼくたらしめる所有物である。

その所有物に、なにかしらの不足感がなければ、Twitterでつぶやくこともブログを書くこともない。もちろん書くことで満たされるわけではないけれど。所有物の役割は、自分とはなんだ?という問いに答えるための道具でもある。所有物の組み合わせでぼくを表明することができる。場所によって、組み合わせに出てくる所有物が異なる。はたしてぼくの総体を見せる機会はあるのだろうか。総体を見せるということはつまりぼく自身を預けるということだと思うけれど、いまは預けられる存在がいない。

ぼくは生活のひとつの指針として、人に渡すことができる所有物は、できる限り持たないようにしたいと思っている。所有欲を無理矢理押し込めたりするつもりはないけど、なくなってもいいやって思う物を、なるべく持たないようにする。 逆に人に渡すことができない所有物、誰にも渡したくないものは、命をかけて守りたい。

場合によっては、なにか(物)と対峙すること自体が苦悩をもたらすことがある。どうしてもそれを所有したいという苦しみや、逆に所有したくないのに抱えざるを得ないという苦しみは、生きていく上での苦痛のひとつだと思う。

人生は選択していくことと言われることがあるが、それは、選択したほうを所有し、選択しなかったほうを捨てていくということ。だから選択することは悩ましい。人生は苦悩の連続なのだ。

ここでぼくという物体を考えたとき、幾多の選択によってもたらされた結果だとはなんとなくわかるけれど、いまこの瞬間は、宙に浮いているように思えてくる。そして置いておける場所が見つからずにさまよっているようだ。この感覚が、ぼくの寂しさの本質かもしれない。誰にも所有してもらえない存在。この認識がもたらす行き場のない感情の発露が、寂しいという一言でまとまってしまう。

今日は自分が寂しいということを言いたいために、このエントリーを書いたのかもしれない。