取り残されていく感覚

はてなブログを始めた当初、iPhoneで気楽に更新するということを考えて、今のところ質はともかく毎日更新できている。執筆は毎朝、会社に行く前に、会社の近くのマックで執筆をしていて、外出するときは外出先のどこかで執筆をしている。以前はこの時間に本を読んだりぼんやり岩崎夏海のハックルテレビや津田大介のニコ生をタイムシフトで見ていた。つまり、本を読まなくなったし、ニコ生も見なくなった。読みたい気持ちや見たい気持ちを殺して自分が書くことを考えるようになった。

テレビやニコ生のように、過去の時間を逃したら時間的に見られなくなるようなものに価値はない。好きなアニメや小説を読んだりすることは、娯楽や快楽として人生を豊かにするものあれば、価値があるものになる。また、ぼくにとってこの娯楽や快楽とするものの境界は、心に響いて全身が震え、鳥肌が立つかどうかである。音楽もアニメも小説も映画もゲームも、鳥肌が立たないものには近づかない。これはもう感覚であるし、ときには失敗もある。

テレビやニコ生のようなフロー的に流れるものは、後から見ることはできないもの。録画や期限のないタイムシフトもあるけれど、先延ばしにしたものを見る頃には新しいものがある。ぼくは先延ばしして結局見ないことに対して不思議と後悔はなかった。新たな知識や知恵を逃してしまったのだろうけど、必要だったかは怪しい。怪しいというのは、新しい知識や知恵が何かが分からないからだ。こうやってぼくは世間から取り残されていく。

この感覚は、サラリーマンとしてのぼくにも当てはまる部分がある。何年もやってきた仕事への興味が明らかになくなっている。新たな知識や知恵への興味がなくなってしまった。毎月、毎年、違う相手に対して同じことを繰り返していく仕事に何を見出せば良いのか。こうやって会社でも世間から取り残されていく。

このブログでは生活のことを書いているけれど、明らかに「後退」「衰退」に向かっている自分に気づいている。それが良いことなのか悪いことなのかは、まだわからない。