ひとりぼっちに殺される

スマホなどによるウェブとリアルが融合した世界において、ぼくたちはいくつかの世界を並行して生きられるようになった。ウェブ世界に籠もることができれば、リアル世界に籠もることもできる。ぼくにとってはどちら孤独だ。孤独とは、つまり愛されないということだ。よく孤独と引き合いに出される孤立ではない。会社の世間にはいるし、ウェブの世間にもいる。孤立はしていないけれど、それはぼくが必要だから、ぼくが必要とするから成立する関係だからだ。

ぼくは、孤立は怖くない。けれど、孤独は苦しい。

平野啓一郎のいう「分人」のように、ぼくはいくつかの人格を備えている。だから、愛される人格さえ作ることができれば、ぼくの孤独は解消されるはず。そう信じて生きてきたけれど、どうやらぼくには愛される人格を作り出すような人間性を持ち合わせていなかった。ぼくは分からない。愛されるということ自体が。そして当然、愛するということも分からない。

ぼくの終わりは孤独死だろう。誰にも知られることなく死んでいく。まあそれでも倒れてしまって入院でもすれば親兄弟が気づくのだけれど。しかし今の家で死んでしまったら気づく人はいない。数日無断欠勤すれば会社の人が家に訪ねてくるかもしれない。しかしインターフォンには反応しない。いずれマンション管理会社に鍵を開けてもらって始めてぼくの死が確認されることになる。ぼくはなぜ死んでいるのだろう。風呂場で転んだのか。食べてはいけないものを食べたのか。大量に薬を飲んだのか。首を吊ったのか。道ばたに現れた動物に襲われたのか。殺人鬼に殺されたのか。想像がつかないけれど、死の可能性だけは常に感じて生きている。

ぼくは自身が生き続ける可能性を信じていない。飼っている猫が亡くなったら、ぼくは生きる理由がなくなる。そのくらいに淡い理由でしか生きていない。

愛されたいと願うだけでは叶わないのは分かっている。愛されるためには愛されたいと要請しなければならない。

人格と髪が薄いブサメンが愛されなかった現実は、現実を変える術を持たない。ぼくは孤独に囚われて、孤独に殺されるのを待つだけだ。