恋人の名前

 ぼくは女性と知り合うとき、その女性の名前がとても気になる。名字ではなく、名前がどんな風なのか。それは、その女性のことはいつか名前で呼ぶことがあるかもしれないと思っているからなのだが、その名前を知るときは、いつも緊張感が漂っている。社員証のカードやメールの署名など、こっそり名前を見つけることもあれば、自分から聞かないと分からないときもある。

 こっそり名前を見つけたときは、名前の文字を見つめながら、心の中で平仮名に変換してつぶやく。そして名前の由来なんかを想像してみる。どこか深遠なイメージを彷彿とさせる名前や、適当につけたんじゃないかと思うような名前だったり。名前の具体例は、ぼくが抱くイメージとはいえ、女性の読者の人を敵に回すかもしれないので、控えておくけれど。男性なら太郎とか次郎とか、そういうことである。しかし、分かりやすい名前にも、名前に左右されない、個性的な人間に育って欲しいというような、深い意味があるようにも思えてくる。やはり名前というのは、生きた人間が付けるという意味でも、大いに考える余地のあるものだ。

 名前を自分から聞かなければいけない場合、大抵はぼくから先に名前を言うことになる。そして、ここで問題が出てくる。この問題は名前だけの問題ではないのだけれど、ぼくは滑舌があまり良くない。気心がしれてしまった日には、何を言ってるのか分からなくなる(らしいが、ぼくは知らない)。長年歌を歌っている弟も同じようで、気心知れた人との会話は何を言っているか分からないらしい。家系の問題だろうか。母はうるさいけど聞き取れるので、父の遺伝だろう。そういえば、父はあまり喋らない人だった。(生きてる)

 子どもの頃を思い出すと、ぼくは「ひゃく」が言えなくて、おそらく「しゃく」となっていて、クラスメイトにからかわれたのを思い出す。ぼくは単純で純粋な少年だったので、自分の滑舌が悪いなんてことは露知らず、クラスメイトのからかいも、当初は意味をなしていなかった。意味が分かったときには、ああ、口が悪いのか、と思った者だ。今はこの「ひゃく」は言えるようになっているけれど、なんとうか「ひやく」という感じになっていると思う。「ひゃく」にかかわらず、苦手な単語というか、言葉の出だしがけっこうある。

 それでも壇上で話す場合などは、リハーサルのときを含めて、滑舌についての指摘はまったくない。おそらく壇上でははっきり話そうとする口の動きが違うのと、長年の蓄積により苦手な単語を避ける能力を持っているからだと考えている。

 しかし滑舌の悪さが人の名前となると、致命的なものになる。なぜなら、名前は正確性を求められ、かつ避けることができないからだ。

 ぼくの本名が□□△△だとすると、□□も△△も、発音が苦手である。長年言い慣れているからなんとか人に伝わるように発音するようになっているが、素で口に出したら、~~~~です。という感じになり、相手は妙な顔をすることになる。名前なので音程のニュアンスで、ああフルネームを言ってるのね、と分かってもらえるかもしれない。

 なんにせよ女性が恋人になったときには、名前で呼ばざるを得なくなる。いや、ぼくが名前で呼びたいだけだけれど、名字で呼び続けたり、口に出せる別名で呼んだり、そういうことはあまりしたくない。だから、恋人になるためには、まず名前を口に出せることが条件となる、わけはないのだれど、出だしの重要な要素であることは間違いない。

 だから女性の名前がとても気になる。ぼくが口に出せる名前かどうか。女性の名前を知ったら最後、脳内で名前を呼ぶ練習が始まる。声に出さずとも、口の動きを練習する。実際に声に出す機会を、いまかいまかと、うかがいながら。

 どうか、ぼくと出会う女性が、ぼくの口がついていける名前でありますように。