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読書をする意味を考える。

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休日は図書館に行くことが多い。3年ほど前に区の図書館で初めてカードを作ってから、ほぼ毎週行っている。ぼくが継続的に読書をするようになったのも、この3年ということになる。3年でどのくらい読んだか、単純に量、冊数をブクログの登録数を確認すると587冊になる。ブクログに登録を忘れていたりする本もけっこうあるはずなので、もっと読んでいるはずである。ブクログに登録しても、レビューを書かないし、あまり振り返ったりもしないので、覚えていない本も多い。

この「本を読んだけれど覚えていない」ということについて、ぼくは今日まで割と楽観的にいた。質より量が大事なときもあった、とか、そういう風に思うようにしていた。だから「ブクログの画面上において登録されているけれど覚えていない」ということについては、心理的に流すことができていた。しかし今日、図書館で、かつて読んだはずの本を目の前にして、その本の内容を思い出そうとしてみた。そして、なにも覚えていないことに続いて、ぼくはその本をもう一度読む必要があるかを考えた。答えは、「読まない」だった。その瞬間、ぼくは今までどれほど「読書」という無為な時間を過ごしてしまっていたのかを想像して、その場で立ちすくみ、汗が滲んできた。

読んできた本の中には、表紙の画像を見るだけで鳥肌が立つような感動を得たものがある。「また読みたい」けれど新しいものも読みたいから、またいつか読もう、人に紹介できるきっかけがあれば読み直そう、を気を改める。そういう本に比べて、どうしてその本を読んだのか、理由はきっとあったのだろうけれど、内容を覚えていない本が多すぎた。ぼくはあまり読書が好きだと言わなかったけれど、それは、実際にたくさんの本を読んでいても何も得ていなかったからではないだろうか。自分にとって必要な本を、好きな本を読んでいれば、その本について話したくなるだろうし、ぼくの場合はブログとかTwitterに書きたくもなっただろう。それがなかったという時点で、ぼくは読書をしていなかったのと変わらないのではないか。

今日は本を見ること自体が虚しくなり、呆然としながら図書館を出た。その帰り道、ぼくは本当に読みたい本、読むべき本を読んでいきたいと、強く思った。