感動を取りもどす。

 ぼくはゲームを楽しめなくなっていたけれど、ときに楽しめるときがある。それは、楽しめるゲームをやっているからではなくて、ゲームをやっているときの心の在り方にあるのではないかと気づいた。
 ぼくは感動というものを忘れているように思える。感動というのは、瞬間に発生する情動のことである。自分が感動していたと気づくのは、感動を脳が言語化しようと試みたときである。
 その瞬間には価値がない。価値など入る隙の無い、情動の変化は真に生きている時間に起こる。今のこの瞬間、10分前のことを考えて過ぎ去ったとしたら、10分後のことを考えたとしたら、この瞬間に情動の変化はなかったことになる。
 やけに極端は話しをしているけれど、感動というものは、10分前のことでも、まして10分後のことでも、起こりえない情動である。そして価値というものは、過去に与えられるものであり、未来を考えて生きるということは、価値のある生き方をしようと今の情動を抑えようとすることであることに気づいたのだ。
 ゲームの話しを例にとれば、たとえばRPGで物語を進めていく上での戦闘や移動をするのだが、その目の前に起こることを楽しめなければ、絶対にゲームを楽しむことなんかできない。物語を進めるだけなのであれば小説で良いのだから。たとえ一本道で進む物語でも、戦闘の苦難や移動の苦労を主人公とともに体験し、道中における人々との出会いに一喜一憂できなければ、その物語を本当に楽しむことが出来ない。もしぼくがゲームの物語を楽しめていないとすれば、それは、目の前の起こっていることより、少し先のことを考えてしまっているからだ。もしくは時間というものを気にしている。「この戦闘が終わったら」「正解のある道に行こう」と、未来の予測のほうが大きくなってしまっている状態、これが今この瞬間の状況を楽しめなくなっている要因なのだ。
 時代の空気に照らせば、時間に追われているということになるだろうか。またリアルタイムなものが溢れて過ぎている。携帯端末やパソコンのなにある、止まることのない世界を手にしてしまい、それが自分の時間の基準になっている。ぼくは端的に、今という時間を自分のものにするためには、自分の外部で自分に関係なく動くものは無視しなければならないと思う。気にしないというレベルではなく、関係ないことはないものとする。
 今のこの瞬間に、思ったことをブログやTwitterなどに書こうとすること自体が、この瞬間を捨てているようなものだ。しかしこれを突き詰めていくと、ぼくは自分を他人に知らせる術がなくなり、自分を見失うことになるのでやめることはしない。今まで以上に、自分の時間を生きるということを取り戻したいと思っていることとのバランスを作っていきたい。