自分がないということの不思議

 先日会社にいることの不思議ということを書いたのだけれど、不思議さの解明が少し進んだので、続きを書いてみようと思う。
 
 ぼくは恐らく小学校くらいの学年や先生というものを意識し始めたときから、縦の人間関係に違和感を持っていた。また、もっと幼い幼稚園に行っているころから、競争が好きではなかった。とはいっても過去は今の意識によってねつ造される部分が多いため話し半分以下ではある。実際に常識からは外れずに学生を黙々と過ごしてきたし、社会人になっても黙々と常識からは外れずに生きている。違和感があるから、好きではないからといって、やらないという選択をしてこなかったのだ。
 ぼくにとっては、目の前に起こっていることから逃げたりやらないということは、勇気が必要なことだった。勇気のないぼくは、違和感から目を逸らし、好きではないことをやっている。この勇気というのは何かというと、ぼくが理解を進めているアドラーの考え方や、寄り添いたい思想が、自分の幸せのために必要なことは勇気だということである。
 今は、会社にいる自分を成立する条件としての「縦の人間関係はこういうものだろうというシナリオ」を描き行動し、また競争から降りるのではなくて、身に降りかかる競争を「競争するとしたらこうだろうというシナリオ」を描き行動している。ストーリーを描き演じているとまではいわないし、そこまで完璧なものではないけれど、ぼくの会社に関する行動原理はこういうものだ。
 だから驚きがなくて、面白くないと思ってしまう。もちろん会社には色々な人がいて、会社の内外で色々なことが起こるので、想定外のことはいくらでも起こる。しかしそうした場合でもシナリオを修正すれば良いと考えていて、うまくいかないことを苦にしない自分は、感情が薄く自分がないように思えてしまう。責任感はあるように見えるし、意思を持った行動を意識しているけれど、自分がない。こう考えると、ぼくは会社では自分がないということに違和感があり、そんな自分を不思議に思っているということになるのだろうか。