名作は面白い

 何年前の作品を古典というのか、よくわかっていないのだけれど、古い小説や映画が気になっている。今までは、古い小説の文体が読みにくいとか、古い作品を観るくらいなら、それらを踏み台にした新しい作品を観たいと思っていた。しかし最近になって、古い作品もぼくにとっては始めて対峙する作品であり、それが作られた時代がいつかなんてまったく関係ないことに気づいた。今でも名作として語り継がれるような作品が面白くないはずはないとまで思うようになってきた。

 古い作品に対峙するときに一番大事なことだと思うのは、それらの作品は、その作品が世に出た時代の人々に向けて作られたものだということだ。50年後、100年後のぼく達に向けてなど作られているはずがない。つまり今のぼくの感覚、時代の感覚に当てはめて解釈をしようとすると、正しく理解できない可能性があるということだ。理解は受け手の問題であり間違っていても構わないと、かつてのぼくも思っていたけれど、その考え自体が間違っているということを最近になってわかってきた。

 それは何故かというと、正しい理解をしていないと面白みを受け取れないからである。理解し納得できないことを面白いと感じることはできない。せっかく時間をかけて作品と対峙したのだから面白いと思いたい。古くから残っている数少ない作品たちは、数多くの人たちを魅了してきたからこそ残り続けているはずだ。それに名作と呼ばれる作品は、歴史的に作られてきた作品の数に比べれば、ほんの一握りも一握りである。そんな作品を面白く味わえないということは、自分が作品を理解できていないと思うしかない。

 もちろん現代の新しい作品が面白くないということではない。ただ、面白い作品に出会う可能性は、古くから残っている名作から選んだ方が高そうなのは確かである。

 ぼくは古い作品を手にするとき、例えば小説であれば原文にこだわらないことにしている。新訳や現代語訳とか漫画化したものとか、どんな形式でも面白さを見つけられれば良いと思っている。映画も、最近は字幕で観ることに抵抗がなくなってきた。海外映画の吹き替えでさえ字幕を表示している。ぼくは良い作品をできるだけ正確に理解し、面白さを味わいたいと思っている。