生きづらさを語る。(2)

 今日本屋で見けかて、パラッと読んだだけで買わなかった本がある。そのタイトルがなんだったのか思い出せないので、なんとか思い出せるキーワードだけ書いてみる。

 ・日記とは「生きづらさ」を書くものだ(?)
 ・とにかく自分のことを書いて、作文の練習をしよう(?)
  ・元々は小学生への講義(?)
 もうしわけないが、すべて(?)なのである。
 こういう本を見かけたのは、昨日鴨長明の「方丈記」から、引き寄せられたのだろうか。

 人は、自分にとってつらいことを誰かに言えたとしても、自分が思っているつらさの上澄み程度しか話せない。もしくはまったく話せない人もいるだろう。だから自分のことを考える時間が必要になる。女性だと、日記を書いている人が少なからずいると思う。女性の人間関係は、男性が思う以上に表面上の関係が大事になっているという。中身とのギャップをどこかで中和しなければ心も身体も壊れてしまう。そんな暮らしのなか日記を書くことで、自分がつらいと思うことや、自分が楽しいと思うことを、認識する必要がある。もちろん日記は1つの手段であり、何でも話せる友達に話を聞いてもらうとか、そういうことで自分を顧みることもあるのだろう。だから女性のほうが話し好きで、話しが上手で、書くのも上手い。口げんかも強くて、いつまでも昔のことを覚えているのは、あたりまえなのかもしれない。
 こう、女性だから男性だからと、あまり偏ったことは書きたくないが、ぼくは男性という偏りを持っているのだから、これはもう運命。あきらめるしかない。
 
 「幸福」は誰もが似通ったものだが、ひとりひとりの「不幸」の趣は異なっている。これはトルストイの「アンナ・カレーニナ」に出てくる有名な言葉である。つまり、幸福は多くの人で共有できるけれど、不幸は互いの理解が難しいともいえる。もちろん、話しを聞いてくれるだけでいいというのが、不幸を語る人の思いであり、救いの1つでもある。昨日の繰り返しとなるが、不幸、つらさというものは、やはり個性であると思う。そしてぼくは、人のつらさの表現や、その捉えかたに惹かれていく。