小説を学ぶ(「主人公」とは)

 小説というものは、自分の感性に任せて書くものなのだけれど、そのためには小説のルールを知ならければならない。スポーツのようなものと同じで、あるスポーツが上手になるかは自分の運動神経にかかっているのだけれど、それ以前にそのスポーツのルールを知らなければ運動神経を活かせるかどうかもわからない。ぼくに小説を書く才能があるのかは未知なのだが、それを試すためにも、まずはそのルールを身につけなければならないと考えた。

 基本的にこのブログで書く話しは、自分が新しく知ったことや、小説を書きながら気づいた自分に足りないものを紹介することになる。ここでぼくが学んだことをブログの読者が一緒に学んだところで、ぼくが小説を書けるようになることを保証できないことと同じように、誰かが小説を書けるようになる保証はない。それはスポーツでいうところの運動神経の問題で、小説でいえば、文才となるのだろうか。

 ということで、本題に入るが、登場する小説がジャンル的にもタイトル的にもマイナーなものであることはご了承いただきたい。

 まず最初は、小説などの物語における「主人公」とはどういう存在かということ。主人公は読者が感情移入をする人物である。これは読む側のルールでもあるのだけれど、読者は主人公に感情移入しなければ、正確に読み解くことができない。だから主人公をきちんと描かないと、意図したように理解されないのではないかと思う。たとえばライトノベルの「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公は、キョンである。読者は主人公であるキョンを追体験することが求められる。ここで読者の自由はない。主人公がキョンである小説が「涼宮ハルヒの憂鬱」なのだから。「涼宮ハルヒの憂鬱」における涼宮ハルヒは、物語を進めるために設定された登場人物であり、ヒロインである。涼宮ハルヒはただ喋ったり遊んだりしているだけで、彼女自信が語る感情は彼女が言葉にしたものだ。またその涼宮ハルヒの言葉を解釈するのがキョンである。読者はキョンの態度を追体験する。また、脇役の古泉が「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界観の語り部になっていて、キョンがそれを驚きつつも受け入れるように、読者もそれを受け入れるように仕組まれる。もちろん作者はそう仕組まなければならない。読者への世界観の導入がうまくいったから、涼宮ハルヒシリーズは長く続いている。

 ここまで書いたような「主人公」の役割は、小説の読み方を知ってる人にとっては当たり前のことかもしれない。もしかしたら学生時代の国語の授業で習っている可能性もある。しかし自分が書くとなると、登場人物への思い入れからか、それぞれの役割を忘れてしまうことがある。特にヒロインや脇役を輝かせたいと思ったときに、主人公は弱くなりがちになる。そうすると読者は、ヒロインや脇役を好き勝手解釈するようになって、世界観の導入がうまくいかず、さらには作者の意図した世界観が崩壊してしまうのではないかと考えている。