墜ちていく恋と落ちていく愛

 「en-taxi」という雑誌の穂村弘藤野可織の対談記事を読んだ。そこで藤野可織は「付き合ったり付き合わなかったりすることって、事の重大さのわりにただのタイミングだと思うんですよね」と語っている。

 付き合うという意味での恋愛の発生契機はただのタイミングだということは、恋愛ができない人間というのは、そのタイミングがないだけだということだろうか。案外それは正しいのではないかと、ぼくは思っている。恋愛するしないは、そのタイミングに出会う確率の問題であって、恋愛ができないという人は、自身の恋愛の発生確率を見誤っているだけなのかもしれない。モテる人というのは、恋愛に出会う確率が高い人で、恋愛がすぐに始まってしまう。極端なことをいえば、恋愛をすぐに始めてしまうだけで、確率が高い人同士で入れ替わり恋愛し合っているだけだともいえる。 

 ぼくは人間関係でもっとも尊いものは、恋愛または恋愛抜きであれ、男と女の関係であると考えている。とはいえ恋愛を抜きにして語るのは難しい時代であるから、ここは恋愛ありきでの話しになる。女性のなかには、女を誰でも恋愛に絡めようとするな、と思う人もいるかもしれないが、男と女は繁殖のために存在していることを見て見ぬ振りをしているのだと思っている。

 男と女が互いに恋をして関係が終っていく方向へ進むか、お互いに恋をせず始まりも終わりもない平行線を辿るか、男と女はそのどちらかの関係しか生まれない。終わりのない関係は、どこかつまらない。だからぼくは、友情はほどほどに、直接的な恋愛関係になるかは別にして、男と女の関係を求めている。世の中の物語の多くが男と女の関係、それも恋愛を絡めた物語であることからも、人間関係とは男と女の恋愛が大きな要素であることは間違いない。人間関係において男同士の友情、女同士の友情は、男女関係を補足するものであって、友情が人間関係の主役になることは多くない。

 もちろん、社会化された人間関係においては、上司部下の関係など友情でも恋愛でもない関係があることはたしかであり、その人間関係の社会的な必要性の強さが故に、仕事に集中しているときに恋愛などできないという人もいるけれど、そのように恋愛を畏怖している態度こそが、恋愛の必要性を説いてしまっているともいえる。

 恋愛を始めたあとは、その関係を維持していく必要がある。もしくは、衰えていく関係をふたりで支えていく必要がある。恋が愛に変わるだとか、恋と愛は違うということをいいたいのではない。恋愛と生活、社会化していく恋愛の形を受け入れることができるか、ということである。これは恋愛とは別個の問題として立ちはだかる人間関係の悩みでもある。

 簡単な言葉で言えば、恋愛と生活の違いである。また心の問題と社会の問題である。社会の問題を重視する人は、ときに心の問題を置き去りにしてしまう。ここでさきほど書いた、社会化されて人間関係においては、社会かするための(仕事の)関係に集中してしまうが故に、心(恋愛)の問題を畏怖してしまう態度について書いたが、まさにこれが恋愛を乗り越えるための課題ともなる。

 だからといって、恋から愛に変わるのではなく、恋愛から生活に変わるわけでもない。恋愛はいずれ、結婚や出産といった生活がつきまとうようになる。もちろん恋愛している人同士が、そうならない努力をするのであれば問題ない。しかし多くの場合、どちらかが生活を取り込もうとしたがるし、子供ができたりすることで強制的に生活をする必要がでてくることもある。

 なにかきっかけがあったとしても、自分で恋愛を始めて、その恋愛を終わらせたいという人は、果たしているのだろうか。あきらめとか常識とか、そういうことを抜きにして、恋愛を終わらせたという人はいないだろう。でなければ、結婚した後の互いの態度の変化に傷ついたり、ときには不倫をするような事態に陥ることなど、ほとんどないはずだ。しかしそのような事実も、また架空の物語も多いわけである。

 ぼくは恋愛をするということを想像するとき、その恋愛を続けることができるかどうかを。墜ちていく恋と落ちていく愛を、ふたりで見つめ語り合いながら生きれるかどうかを見極めるように、相手に近づいていく。