「生き延びる」ことと「生きる」こと

 生まれてから毎日を生きる、自分が生かされているということも知らず、生き延びる手段も知らない、そんなただ生きていたときを終えると、人は学校や社会で「生き延びる」手段を学ぶ。一度学び始めたら、それを終えることができなくなる。なぜなら、生き伸びるための学習により、人間は社会化されるからだ。

 生きることの価値が生き延びることより優ってしまうことや、生き延びることをやめてしまう人もいるが、それは例外だ。もし自分がそうだと思うなら、自分は例外だと思った方がいい。例外的に、生き延びることに本来必要のない、芸術的なことに優れた能力を発揮するだろう。それで生き延びることができるかは知らないけれど、生きることを可視化できる、社会化されずにいる例外な人となることができる。

 ぼくはきっと、例外にいない。生き延びる力を身にまとった、社会性に溢れた人間だ。そんなぼくが意識的に作り出す生きている言葉の何かは、美しくないかもしれない。技巧的な創作物は、技巧的な創作物だと、わかりやすい評価が与えられるに違いない。人に驚きを与え感動させるような、生きている言葉など、ぼくのなかから出てくることがあるだろうか。

 ブログのように意識に意識を重ねたような、自分が生き延びるために自分の知っていることを書けるだけ書いているようなことも、いずれ枯れていくだろう。完全に枯れてしまったときに出てくるものは、もしかしたら、できあいの自分ではない、生きている熱い言葉かもしれない。そう信じたい。