かつてのぼくは、息をしていた。

 久しぶりにインターネットを覗いてみるというのを今日もやっていて、今日はmixiにログインしてみた。mixiは10年前に開始して少し経った2005年に始めていた。学生が終わり就職をした後で、大学やアルバイトで出会った友達がかろうじて残っている頃であった。
 
 実際ぼくは、友達はそのときになんとか繋がっている人がいれば十分だと思っていた。その友達とも、それほど頻繁に会ったりもしていなかった。それでも気にしていなかったというか、それ以上のことが出来なかったのは、当時のぼくは一人の女性と同棲を始めていて、やがて結婚をするその女性と居ることを最優先とする人生で満足していたからである。「お前は社会人とか無理だろ」とアルバイトの人達に言われていたようなぼくが結婚するために就職をして、それなりに頑張りながらも思い通りの生活をしていた。
 
 当時のmixiの日記には「楽しいと思える人と一生一緒にいるのだと思う」みたいなことを書いてあって、その辺はいまもそんなに変わらないなと思ったりもして、微笑ましく思う。初詣だとか八景島に行ったとかゴキブリが出たとか髪の毛がなくなってきたとか仕事の愚痴だとか、まあ、微笑ましい。幸せみたいなものを、ほんの少しだけれど、ちゃんと書いていた。
 
 今こうやって振り返ると、かつての日記のぼくは息をしていたように思う。書いているときの息づかいを感じる。
 
 仕事の時間以外も、基本的に一人になる時間などはなくて、だいたい奥さんと一緒にいた。具体的な事情を書くことはしないが、かつての奥さんはそういう人で、そういう人だったから、結婚して3年後には奥さんは一緒に住んでいた家を出て別居状態になり、その1年後には離婚をすることになる。
 
 mixiの日記は、書くこと自体が減っていくとともに、奥さんの話題がなくなっていく。そして20代を振り返るという日記で離婚をしたことを書いて、20代の自分を簡単に総括していた。
 
 その後のぼくは、ぼく自身も、よくわからなくなっていく。
 
 離婚の混乱というのはあまりなくて、離婚の手続きはぼくが主導で進めて、あとに残るものは結婚をしていたという事実だけで、それ以外は何もなく終わった。世間で言われている、離婚は結婚の3倍大変だという話しがあるけれど、ぼくの場合に限っては、どちらも簡単であった。今となっては元奥さんがどこにいるのかも分からない。生きていくことが大変そうな人だったので、生きていないこともあるかもしれないし、そう見えていたことも間違っていたのかもしれない。もう、わかりたいという気持ちもないのだけれど。
 
 そんな風に、ぼくの20代を嵐のように通り過ぎた一人の女性が居て、ひとりになってしまった。
 
 離婚してからというものの、何かをするための理由を見つけることに必死だったようにも思う。会社に行くことも当初の目的は失われてしまっていた。そのまま住んでいる家には物が溢れかえっている。家にあるものはそれから2年以上そのまま放置されることになる。ちょうど会社の仕事が忙しかったから、心を無にして過ごしていたのかもしれない。かもしれないというのは、あまり日記が残っていないから、わからないのだ。mixiの日記には残っているのは、仕事で出張に行ったとか、数年一人で行っていた初詣の話しとか、そのくらいしか残っていない。
 
 そして2010年の誕生日に、どこかで何かを書こうと思いTwitterを始めることになる。その頃のぼくは、感情を言葉にするということを怠っていることに気づいていた。意気揚々とあることないこと面白おかしく話すぼくは長らく息を潜めていた。それは恐らく、元奥さんとの生活を通じてそうなってしまったのだろうと思う。結婚をして楽をしようとしたのか、二人でいることに疲れていたのか、理由はなんでも。ぼくは人生を怠ったのだ。
 
 Twitterでは、良いことも悪いこともあった。フォロワーさんと友達になれたり、大切なフォロワーさんが離れてしまったり、よくある話しであるけれど、ぼくもそれを経験している。しかしぼくが失ってしまったと思っている言葉や思考は、Twitterを続けているだけでは、元に戻らないような気がした。もしくは、ぼくが求めている言葉や思考など、かつてから持っていなかったのだろう。
 
 このブログはmixiの日記に書いていたようなものとは雰囲気から違っている。ブログは後から読んで微笑ましい感じではないだろう。それを取り戻そうという思いも、いまはもうあまりない。新しい自分が新しく考えることを、新しい言葉で伝えていければ、きっと今の自分にも人との出会いがあるだろう。愛する人と共に生活することだって、いつかできるようになるだろう。今は夢のようなものでしかないけれど、そんな未来を求め生きていきたい。