ブログを書く動機は、切実さによるものだった。

 ぼくは切実さや本気さというものを避けて生きてきた。かつて自分に起こってしまった事実、内面的に理解されず外見的に虐げられた経験の因果によるものだろう。このような経験を、振り切れる瞬間がある。それはやはり、なにかを書いているときだ。アドラーの目的論の最終目標は幸せになることである。したがって今のぼくは、幸せになることを目的に、毎日なにかを書いているのだと思っても良い。いや、そう思うべきなのだ。
 
 毎日ブログを書き続けられていることについては、大げさに言うこともない理由がある。それは元々、Twitter(このブログと繋げていないアカウントがある)では毎日休みなくつぶやいていて、同時に短歌や小説を書くこともあったから、インターネットでなにかを書くことについてはまったくのゼロから始めたのではない。だから最初はこのブログに書くことは、すでに書いている環境では書けないことを書く場所として考えて気楽に取り組んでいた。ブログで毎日書くことに慣れたら小説やエッセイみたいなものをコンスタントに書けるようになるかもなんて思いながらもブログがなかなか終わらないのが今の状況である。
 
 それではなぜブログを始めたのか。ぼくは数年やっているTwitterでの内向きな自己分析に疲れ始めていた。140字のなかで書けるような自分を書いて、自分のことなんて誰にもわかってもらえないんだといって世界を恨む。しかし、わかってもらえないということの本音は、自分が愛されない人間だということであり、さらにいえば女の子が自分のことを好きになってくれないという、とても矮小な諦念でしかない。そこには、俺は彼女なんか一生出来ないしリア充爆発しろ!と思っていても言わない、なにを考えているか分からない小心者がいるだけだ。
 
 内省的なツイートに価値はない。それに気づきながら、芸風のようなものとして自虐的になることは、本当に無駄なことだと思う。このことは、実はまさにこのブログを書いている今日気づいたことで、昨日までのツイートを黒歴史として封印したい気持ちにさせられた。
 
 他人が理解を示すことができるのは、人の内的な部分ではなく、外に向かっている言葉だ。なぜなら読む人だって、自分のことが他人にわかるわけがないと思っているのだから、他人がTwitterで自分のことだけを見つめて書いていると見てとれるものを理解しようとは思わないだろう。
 
 はてなブログを書いていて、スターをつけて頂けたり、さらに気になった部分にスターをつけて頂けたりして、人がどういうことを読みたいと思っていて、どういうことで役に立てる可能性があるのかということに気づいてきた。だから、ぼくが考えていることは伝わるわけがないと思っていた自分が恥ずかしいし、内的な部分にスポットを当てて自分が作る壁に身を潜めていたことが情けなく思えてくる。しかしこれからだろう。こうしてようやく見えてきた自分が切実に求めているものを捉えながら、変化をしていきたいと思う。