創作の源泉を過去の因果にみる。

 ぼくは素直ではない。素直なことが言えなくて、本当の自分のことがわかって欲しいとか、思っている人間である。素直にならないぼくは、求められてもいない演技をする。本当の自分を出してしまうことを恐れている。本当は、その「本当の自分を出していないと思っている自分」が、本当の自分だということを知っていたとしても、知っているのに変わらないぼくに、その価値はない。なにかのきっかけで、自分のことを振り切れてしまうような相手がいると、ぼくはその人を好きになってしまう。そして、好きということが恋や愛の妄想に至ったのち、現実に気づくことになる。ぼくが思っている「本当の自分」は、愛されることがないのだ。

 何かの間違いが起こるのが先か、自分が変わるのが先か、なんて考えているぼくは、人を愛したくて人に愛されたいと願うけれど、その愛というものを求めきれない。それは、どうしても愛の苦しみから逃れることができない体験をしてしまったからだろうか。今のぼくには到底あり得ない体験なのだから、もう自分じゃないと思いたいくらいなのだけれど、逃れることはできない。その体験によって今のようになってしまったのだとして、そうやって過去を原因にして今を規定している限りは、ぼくは変われない。変えられない過去を原因に、今を苦しんでいるだけなのに。

 ぼくは(アドラーの)目的論に賛成しているし、それはきっと、いざというときに因果論を持ち出そうとする自分を変えたいからだけれど、ぼくが本当に変わってしまったら、今の、因果論に陥る心情を忘れてしまうかもしれない。ぼくは、これからも日本人には因果論のほうが響くのではないかと思う。もし目的論に賛成する人が増えていったとしても、ぼくが生きている間に主流になるとは思えない。だからぼくは、創作の源泉をなくさないように、今を苦しみを表現しながら、変わっていきたい。こうすればいいというのが分かっていたとしても、自己啓発的に、わかったふりをして簡単に理想に辿り着いてはいけない。