ノートや手帳が書けない理由

 同じことをグルグル考える癖があって、誰にでもあることだろうけれど、悩むことがある。悩んで立ち止まって、身動きが取れなくなって、停滞してしまう。それでも日常は止まってくれなくて、耐えられなくなったときには、日常を止めてしまう。
 
 
 ぼくは、悩み多き時間と、例えば会社や学校に行っているような時間と、どちらが「日常」かと言われたら、前者だと言いたいのだけれど、常識的には後者なのだろう。自動的にやるべきことがあって、それに向かって行動することを求められる会社のような場所で悩みがあるとすれば、それは、目の前にある問題に悩むための時間を取られてしまうこと以外にはない。
 
 
 悩んでいることをひたすら悩み続けても、結論に至ることはない。なぜなら、ぼくは解決できないことを悩んでしまうからだ。勇気を出して行動すれば解決する問題であれば、ぼくは行動をするだろう。それができないから悩むのであって、言ってみれば無駄な時間を過ごすことになる。
 
 
 今日はこんなことを書きたかったのではなくて、「ノート」のことを書きたかったのだ。かつてぼくは日記的なことや日々の真実を書く場所があった方が精神的に落ち着くのではないかと思い、「ほぼ日手帳」や「ノート術」また「マインドマップ」などを勉強したことがあった。その度にノートを買ったりペンを買ったりしていた。やり方と道具を先に手に入れて、それから始めようとした。ここから先は、今までと同じ。最初はノリノリで始めるのだけれど、ぜんぜん続かない。知識と道具に負けるのだ。もう少しいうと、こうなるはずだという完成系や道具を使いこなすイメージどおりにならないことに、落ち込むのだ。本当は、徐々に成長すればいいものを、知識や道具があるばかりに、劣等感に変わってしまう。今さらほぼ日手帳マインドマップも書きたいと思わないのだけど、始まりさえ間違えなければ、今もやっていたかもしれないと思う。
 
 
 そして岡田斗司夫の「スマートノート」の本が出たころ、ぼくはアプローチ方法が今までと違うと思い、このスマートノートを始めてみた。スマートノートの目標は、「天才」になることだ。スマートノートについては今までの経緯から、今のところあまり深読みせずにいるのだけれど、スマートノートを活かすとしたら、こういうことだろうと思っている。
 
 
 スマートノートの方法に従ってノートを成長させていき、いつか天才だと思える部分が出てきたら、その部分だけを外に見せるようにする。そして秀才的な部分まではノートに閉じ込めてしまう。人は思わず自分の知っていること、つまり秀才的なことも外に見せたくなってしまうけれど、それでは「面白くない」。人が面白いと思うのは、天才的な部分だけだから。もちろん秀才的な部分も、思考の過程として、天才的なことの納得感を出すための材料として使うことができる。
 
 
 と、まるで知ったように書いているけれど、スマートノートもだいぶ前に止まってしまっている。結局ノート2冊分くらいしかできなかった。1年を通して何回かチャレンジしたけれど、うまく続かなかった。それでもぼくにしたら結構続いた方で、スマートノートをやっていることでノートを書くことは脳を動作させることだけではなく、身体的な動作であることも知った。むしろ、身体的な動作だからこそ、僕はノートを書けなくなってしまった。
 
 
 ノートを書けない理由はただ一つ、ぼくは手が冷たすぎて、指に力が入らないからである。
 
 
 くだらない理由と思われるかもしれないが、ぼくはの手は基本的に冷たくて、ペンを握る指、ノートを触る部分手の横の部分、書くことで、イライラしてしまう。ノートを書くモチベーションを保つことができないのだ。体温調節の問題か、これは冬だけの問題ではなくて、夏は汗で濡れているかエアコンで冷たいのどちらかで、一年を通して手指がちょうどいいときがないのだ。
 
 
 ノートなんて家でゆっくり温度を整えて書けばいいのではと思われるかもしれないが、今のところ、家は何もできない場所なのだ。家で書いたとしたら、家にいることに心が覆われてしまい、変に力が入ってしまう。ヘヤカツが身を結び、家で活動できるようになった暁には、またノートを始めてもいいかなと思っている。