「間違っている」ではなく「逆である」と考える。

ぼくが書いた昨日の記事で、「同じ事を考え続けることが当たり前だと思っていたけれど、それは逆のことをしていたのかもしれない」と書いていたことに気づいた。

なにか考えていることがあって、それが間違っている(かもしれない)ことが分かったとき、どういう態度でそれを受け入れれば良いか。それは、「間違っていたのか」と考えるよりも「逆だったのか」と考えるのが正しいと思っている。表に対する裏のように「逆だった」といって単純に言い切れることではないかもしれないけれど、少なくとも「自分は間違っていた」と責めるような態度で受け入れて考えることをやめてしまうよりも、「逆だったのか」という態度をすると、これは「わかった」という感覚に近く、より発展性があるように思える。「間違っている」ということに負の感覚を持たない人は良いのかもしれないけれど、一般的には負を感じる言葉だと思う。「逆である」という言葉には、逆の逆に戻ってくることも許されているような、柔軟性があるようにぼくは感じている。

実はこの「逆」で考える方法は、岩崎夏海さんのブログに書かれていたか、もしくはニコ生で語られていたことなのだけれど、30分くらいメルマガや自分のメモを読み返しながら探しても見つけることができなかった。気づいたのがいつだったか覚えていないというのもあるし、すでに膨大な量のメルマガを受け取っていて、検索しても見つからなくなっている。岩崎夏海さんは「逆に考える」というのが当たり前になってるようで、多くのメルマガの記事に「逆」という言葉が書かれていて、探しきれなかった。

話しは変わってしまうが、メルマガに限らず、ぼくが自分の意志で受け取ったものや受け取ろうとして目の前のあるものは、すでに自分の手に余るくらいに膨大になっている。会社のことなんかも含めてぼくに向かってくる情報の量は、1日のうちに、24時間あっても受け取りきれない量のものに晒されているように思う。

わかっているなら落ち着いて受け取りたいと思うのだけれど、時間は絶えず動いていて、今日も夜を迎えている。明日に向かって新しい時間が待っているというよりも、時間を後ろに置いていってしまうような感覚で、うまく生きられないところもある。

ぼくは今この瞬間に、ぼくは何を受け取れば自分が満足するのか。逆に、ぼくは自分以外に何を与えるべきなのだろうか。それはこの記事のように、受け取ったことを自分のなかに取り入れようとしていることをブログに書くことだろうか。そうやって、ぼくが書いたものを読んで、誰かが何かを受け取ってもらえるだろうかと考えながら、自分で自分に何かを与えているようにも思う。