自分が好きではない言葉を使って書いていく。

昨日のブログはいきなり恋愛について書いたからか、いつも以上に支離滅裂だったので、少しだけ手直しをした。

ぼくはこのブログの過去の記事を自分で見直す気があまりない。それはなぜかというと、自分で使ってしまった言葉を訂正したり削除したくなるからだ。

一つの例として、ぼくは「価値観」という言葉を聞いたり見たりすると、少しだけ引いた反応になってしまう。口に出している人がいたら、目の前でも一瞬固まってしまうかもしれない。力のある言葉に弱いという感じだろうか。ぼく自身が勢いでそういう言葉を書いてしまったときも、書いている途中に読み返したりしたときなど、自分が書いた言葉に負けそうになってしまう。「価値観?なんだこれ、どういう意味だ」という風に頭がグルグルしてくる。だからといってそこで手を止めないで書き切ってしまうというのが、このブログの自分なりのコンセプトになっている。他の言葉で表現する力がないのだから、今の時点では諦めるしかないと思うことにしている。

改めて思い出そうとすると出てこないのだが、「価値観」以外にもたくさんある。ブログ界隈でいうと、「文脈」とか「物語」もそうだろうか。口癖のように書いている人もいる。ぼくはこういう言葉に対して引いたり固まったりしてしまうから、いざそれを思いだそうしても出てこないようだ。

しかし、ぼくは気を使う必要がある場所では、自分が使いたくない言葉を使う。会社の仕事でのやりとりでいえば、いわゆる業界用語的な言葉や、なるべく閉じた世界で力のある言葉を使うようにしている。それは仕事上の関係の相手と意志疎通するために必要なことだからだ。

仕事上では仕事のために使いたくない言葉を使っているからだろうか、自分が表現しているわけではないと思ってしまう。自分の発言ではあるけれど、ずるい言い方をすれば、社会人というキャラクター、アバターを演じているような感じになる。と、「社会人を演じる」なんていう言葉はあまり好きではないかもしれない。ぼくにとってちょっと強い言葉なのか、納得できない言葉なのか。

ぼくはインターネットを始めてから、あちこちで細々と書き続けてきたしTwitterもやっているけれど、それらでは好きではない言葉を使わないようにしてきた。だから今まで何回ブログを始めても続かなかったし、書きたいことが書けないことに嫌になっていた。

つまり自分が拘っていた言葉を使うことへの態度が、言葉を使って書くことの制約になっていた。気づいてしまうと情けない。書くことが好きで、書けないことが嫌ならば、嫌でも書けば良かったのだ。自分が嫌いな言葉だって、それに変わる言葉や表現方法を見つけるまでは、それを使っていくしかない。そのときそのとき持ち合わせている言葉を尽くせば、少なくとも、新しいことを書いていける。同じことを今までと違う新しい言葉で書いているかもしれないし、考え方が新しく変わっているかもしれないけれど、それが書き続けるということだと思うから。