事実であることと、架空の話しであること。

このブログは今のところ全てぼくの事実を書いているのだけれど、読む人にとってはぼくが書いたものが事実でも架空の話しでも、誰かが書いたもの読んでしまったという結果は変わらない。だから、ぼくにとっての事実が誤解されてしまう可能性は、あまり気にしないことにしたいと思っている。もしぼくが書いたことがねじ曲げられてしまっても、ぼくはきっと訂正することができない。なぜなら、書いてしまったという事実と理解されてしまったという事実は後戻りできないからだ。

ぼくが書いたことが事実ではなく嘘だということがわかったら、どうなるだろう。考えてみたけれど、嘘というのは、事実の対極ではない。嘘は真実に対するものだから、ブログなどの文章には適さないだろうか。もしぼくのブログに嘘という概念があるとしたら、それはこのブログに真実を求めてしまっているからである。1次情報を発信する使命などないのだから、それはないだろう。やはり嘘という言葉は不自然だ。

それでは、架空の話し、いわゆる小説やエッセイのようなものと、事実の違いはどうだろう。日記のような読み物が好きという人は、ひねくれた言い方をすれば、事実らしいものを、事実だという前提で読むことが好きということだと思っている。人は人間らしさを求めてしまうから。描かれる人間らしさの生々しさや繊細さの度合いが、好き嫌いとなっているのだと思う。そしてそれが架空の話しであっても、書かれたものを読むという行為自体は同じなのだ。

この人間らしさ、というのは、ぼくの人生の課題というか、足りないものの1つである。ぼくは次文意感情があまりないことに、コンプレックスを持っている。毎日平坦なブログを書いているのも、ぼくの事実として、日常的に感情を使う場面が少ないないからだということが分かっている。感情的な事実がなくても、架空の話しとして書くことができれば、少なくとも他人にはぼくを感情が足りない人間だとは気づかれない。いや、気づいたからといって弊害はないのだけれど、こんな風に書くのだから、そう思われたくないと思っているのだろう。

ぼくが架空の話しを考える。そして架空の話しを書く。架空の話しを考えて書いたことは、他人から見たぼくの事実である。こういう架空の事実を、人は求めるだろうか。架空の事実を考えて可視化する。これが創作するということだろうか。