たましいの場所 (早川義夫「たましい場所」)

早川義夫の「たましいの場所」読んでいて、この人の文章のおもしろさの秘密がこの本自体に書かれていて、とても納得できた。ぼくは書くことについては、自分が知っていること、知識を書きたいのではないというようなことを書いたことがあったかもしれないけれど、だから何をどう書きたいのかは言葉にできないでいた。早川義夫もこの本なかで引用をすることで、自身が書いていることの本質を表明している。早川義夫が引用していることを引用してみる。

知識を書かないこと。情報を書かないこと。何も書かないこと。自分の中の権力をゼロにする。言葉をも追い払う気持ちで書き、死後に託す。生きている人の評価に耳を貸してはならない。

新しいつもりで書いたところから文章は古くなる。腐り出す。古いものはもう古くならないが、新しいものはどんどん年を取る。正確な文章をかくとしたら、多少、保守的にする覚悟がいる。

「世の中に進歩するものなんてありゃしないよ。すべてのものは変化するだけさ。その変化を君たちが『進歩』と呼びたければ呼んだっていい。しかし、それはただの変化であって、ぼくには進歩なんてものじゃない」

早川義夫は、こういうことに感銘して、いつ読んでも色褪せないような素晴らしい文章を書いている。しかしここでは色褪せないことが良いと言いたいのではない。ぼくがそういう文章を書けるようになりたいだけである。書きたいテーマによって、それぞれ書く人の目的があるわけで、「今」に拘り、使い捨ての情報を書くこともまた、一つの目的になる。逆に、普遍的なことをテーマに書きたいと思えば、これら引用したようなことを意識することが必要になると思う。それに書く人全てが「自分が書いたこと」に魂を込めたいとは思っていないはずで、「書いた自分」に魂を込めたいという人もいるだろう。前者は作家であるが、後者は少し違う。その違いを今のぼくは言葉にできないのだけれど。

いまのぼくは、何かに縛られようと思わない。情報だろうがなんだろうが、ぼくの魂は、そのどこかに潜んでいればいい。それでも、ぼくのつたない表現で魂を込めすぎると、読む人にとっては苦痛だろう。早川義夫くらいに柔らかく魂を込められたら良いのだけれど、それは身体的な経験、実体験みたいなものがものをいうのではないかと思ってしまう。想像であれほど豊かな表現ができている可能性もあるけれど、ぼくにはそういう才能はない。フィクションを書こうと思ったら、想像力に想像力を上乗せするくらいの表現が必要になるのだろうけれど、それもままならずに、思わず自分が出てしまうことがある。だからこのブログで自分の魂みたいものは吐き出しておきたい。それをそれなりに読める文章で残したい。かつて小説を書く前は、Twitterに書くような「自分」が小説では書きたくないと思っていた。それは今も同じで、小説で思わず出てきてしまう「自分」はブログに書くようにする。それで最近ブログのほうが更新しやすくなっているので本末転倒なところもあるのだけれど、またそのうち書く場所が変われば良いし。そのときまで書き続ければいいのだと思う。