手段と目的、目的に向かって手段を究める。

手段は目的が明確になってから考える。目的が達成されれば手段などなんでもいい。目的を明確にしてから手段を究めるべきであるが、手段に入れ込むと目的を見失う。常に手段と目的を行ったり来たりしながら目的へ最適化していく。

文房具の本を読んで仕事に役立つ文房具を集めたけれど、敢えて文房具を使うような場面を作ることができず、新品の文房具コレクターになってしまった、なんてことは良くある話しだろうか。ぼくも気になることは色々試してみるけれど、使わなかったり気に入らなかったら捨てるというところまでイメージするようにしている。逆に手に馴染んだしてきたら、より良いものにアップデートしていくことにこだわる。

これはぼくが仕事をしているうちに辿り着いた1つの解だけれど、文字に起こすとただの理想論でしかない。「最適化」「イメージ」なんて言葉のふわふわ感はたまらなく「仕事」的だ。だからぼくはこういうことを文字に起こすのが好きではないのだけれど、このブログの「書けることへの挑戦・実験」という目的に立ち返ると、こういうことも書いていく必要があるだろうと気持ちを改めた。

しかしこれを書きながら、ぼくはどうして「仕事」を目の敵にしているのだろうと、ふと考え始めた。
考えても嫌だとしか思えないので、嫌で嫌でしかたがないことを挙げてみる。

・他人に気を使うのが嫌
  ≒空気を読んで解決することが仕事みたいなもの
・上から下から追い込まれるのが嫌
  ≒追い込むこと追い込まれることが仕事みたいなもの
・仕事以外のことができないのが嫌
  ≒滅私奉公が仕事みたいなもの
・暑かったり寒かったりするときに外に出て会社に行くのが嫌
  ≒集まって監視しあうことが仕事みたいなもの
 
仕事というものの常識(と言われるもの)を当てはめてみるとわかりやすいだろうと思い、それぞれ補足している。
 
このくらいだろうか。これだけかよ、なのか。このくらい我慢しろ、なのか。このくらい対策あるだろ、なのか。分からないけれど、ぼくにとってはストレスであり寿命が縮まっている気がしている。寿命が縮まるということは、死にたいと思うことがあるということだ。
 
これを深掘りすると眠れなくなりそうなので一旦この展開は終わりにする。

実はぼくは、これらを多少は改善するかもしれない方法に気付いていて、このブログにも書いたことがある。それは、職住近接である。とにかく家が近くにあれば、会社の時間が終わったらすぐに寝る、という選択肢ができる。加えて、会社が終わったらすぐに解放される、ということでもある。会社で働くということに対してできる最初で最後のことかもしれないけれど、試してみる価値はある。うまくいかなければ辞める。会社以外の活動をするにも、今よりさらに都会のほうがいい。

現実的に今すぐできることは「自分の部屋に引っ越す」ということである。今後引っ越した先での生活をイメージを明確にするために、まず、今の家で過ごしやすさの工夫を試みる。すでに要らないものをほとんど処分してしまっているいて、今はものを入れ替えている時期で、心地よい空間を作ろうとしている。

先日書いたように、家で音楽を聴くための環境は整ってきていて、今このブログは外で書いているけれど、家に帰るのが少し楽しみになってきている。次は家で珈琲を飲めるようにバリスタでも買おうか。もう少しだ、きっと。