人生の負債の行方

ぼくは負債を持たないで生きていきたい。誰だってそうだろうけど、すでに負債を抱えている人や、負債を抱えていることと引き替えに幸福を手に入れている人にとっては、あまり関係のない話しだろう。幸福と引き替えに負債を抱えるという言い方は明らかにネガティブだけれど、幸福を手に入れていないぼくにしてみれば、幸福というのはそういうものに見えるのだ。

ぼくは負債と引き替えに何も得られていない。仕事で時間を放棄することで「生きている」というのは、生きる目的にはならない。ぼくはまだ感情が残っている脆弱な人間だから、生きるためには理由が必要なのだ。感情なんてどっかいってしまえばいいのにと願っても、その願い自体が感情である以上、ぼくは感情を持ち続けることになる。

ぼくが返済しないといけないものは何だろうかということを考え始める。いまのぼくは少なくとも背負っているものはない。

人についていうなら、背負う人がいないというのは身軽さと寂しさが同居する孤独を意味している。このブログでぼくは「孤独」という言葉をたくさん使っているけれど、それは「孤独」の意味を体感的に表現したいと思うからだ。ひとりぼっちで寂しいということだけではない。ひとりぼっちでも、考えることができる人がいるというだけで、ぼくは孤独ではないと思うからだ。

金銭的なことでは、クレジットやローン的な負債はないけれど毎月の家賃や光熱費の固定費は「負債」といえる。毎月10万円以上の負債を即座に返し続けている。(家賃について正確にいえば、次月の賃料を払っている)住居にかかる固定費を下げていくことは、負債の軽減につながる。本当はゼロになるのが一番なのだけれど、そうするために今ぼくがいる資本主義のサイクルから外に出る必要がある。

モノについて、ぼくはモノを持たない生活をしたいと言っているけれど、いまは未来への負債でしかないモノを持ち続けている。持っていてもどうしようもないものを捨てきれないのも、負債を受け入れようとする感情なのだろうか。すべてを捨てて森に小屋を建てて暮らすとか、ホームレスに向かう勇気は今のところはない。

結局は、ぼくは負債を抱えて生きていくしかない。「生きる」という言葉に逃げるのは本意ではないけれど、やはり生きるということは、負債を抱えることなのだろうか。