存在価値との闘い

ぼくは自分のなかにあるものを全て出し切ってみたいという思いからこのブログをはじめた。最初は確かにそう思ってはじめたけれど、結局ぼくは「今」を書くことしかできないから、出し切るという感覚は違うということにも気づきはじめている。


会社で仕事をしているぼくは、ぼく以外の社員が期待されていることと同じことを期待されて、その期待に応えることで成果をあげている。期待への応え方には色々あるだろうが、そのやり方の違いに自分らしさを見出すことができるかというと、それは難しい。たとえば仕事上の個性というものがあったとして、それが他の人と違うこととすると、同じ期待がかけられている者同士では競争にしかならない。求められていることが単純に生産性を高めることによって会社にもたらす利益であるとすると、この目的に向かう競争に個性など成立しない。しかも前提条件やスキルなどの差異がある、スポーツのようにフェアではない競争をすることになるのだから、歪んでいるとしか思えない。極端なことをいえばスポーツも同じで、圧倒的に強く孤高の存在以外に個性はない。その人である必要があるのは、その人にしかできないことをしている部分にのみ現れるものだ。さらにはその人が必要とされること以外に、個性が見出させることはないだろう。

それでは、ぼくが必要な場所はどこだろうかと考える。家族がいれば、奥さんや子どもに対してぼくにしかできないことがあり、それを追求することで自分の存在価値を見出すことができる(かもしれない)。しかし今、そのような環境にぼくはいない。この家族がいないことについては悲観的も楽観的でもない。何故なら自分の家族がいる状況がよくわからないから語ることができないということだ。


ぼくに今できることは、自分のことを書くことだけである。時間を持て余しているからこそ思いつくような安易な方法であることは認める。ぼくが書くことなんてだれも求めていないけれど、自分が求めている。だれにも求められていないとしたら迷惑をかけようがないのだから、今がチャンスなのだ。ぼくという人間が明らかになったとき、ぼくはぼくに存在価値を与えることができるかもしれない。ぼく自身に存在価値を見出すことができれば、その実績から、ぼく以外の人にも存在価値を与えることができるはずだと信じている。


自身が他者性を取り込むことにより、他者を受け入れることができる、ということを内田樹から学んだ。ぼくのなかの他者はぼく自身だ。ぼくのなかの他者は決して借物でも偽物でもない。こうやって自分との対話に意味を持たせていく。さらに内田樹は物語性を失った大学における学問の在り方において、学問を受け継ぐという形で成立する人間関係は途絶えていくという趣旨のことを言っている。つまりは、ぼくの物語を受け継ぐ人は、恐らくいないということだ。


この一段落を書くにも、ぼくの考えを書いているうちに結果的に引用していることに気づいたために内田樹の名前を出すことを考えた。自分で書くことによってのみ、学びが血肉になっていることに気づくことができる。ぼくが書くことはぼくの物語だ。そのぼくの物語に内田樹が存在する。こうやってだれか(ここではぼく)の物語に存在することで内田樹は自分の存在価値を高めていったのだと想像すると、ぼくは感動で身体が震える。


いつかぼくの存在で、だれかを震えさせることができたとき、ようやく生きていて良かったと思うことができるだろう。そのときまでぼくが生きているかどうか、これからが自分の存在価値との闘いである。