創作としての「書くこと」

自分が単なる消費者であるだけでなく、自分の手で作るようになると世界が変わる。

こういうと絵や音楽や文学などの芸術を思い起こすだろうが、一番身近な例しては料理が挙げられる。

外食をすれば、自分より沢山料理を作って色々な人に食べられているプロの料理を食べることができる。しかし料理は自分でも作ることができる。思い通りいくかは別として、作りたい味を自分で作ることができる。それを自分で食べてみればプロとの違いや素材の違いなどを身にしみて分かるし、もしくは普通の人では作れない味の元をパッケージにして売っているから、創作過程をショートカットすることができる。このように創作も消費も最少人数の自分ひとりで回すことができるし、自分で野菜を栽培するようになれば素材の供給者にもなれる。

ぼくは毎日書くようになった。毎日自分を素材に言葉を組み立て文書を作る。その文章から良い味がするかどうか、今は自己満足から始まって、いつか人に味わってもらえるような文章が書けるようになるはずだ。

何かを熟練するには、1万時間を費やす必要があると言われている。もし文章を書くことを熟練するとしたら、ぼくはこうやっている書いている時間を1万時間は積み上げなければならない。1日3時間で10年かかる計算だ。1日1時間なら30年。ぼくはもう30年も生き続けられるか分からない。だから何を書こうとか、書くことについて考えている場合ではない。

ぼくは書こうと考えていることを書くために、このはてなブログを始めた。書こうとすることの元ネタとして書き出しつつ、いつしか本気になって書いているというのがとても気持ちいい。

そして、プロの文章を読む。ぼくには何かが足りないということに気づく。しかし今のぼくの力では、何が足りないのかがはっきりしない。 気づいている点を挙げてみると、一番大きいのが「誰かの役に立てることを書けていない」ことであり、技術的には「言葉が一辺倒で、論理的な飛躍もある」ということがわかっている。

やはり一番難しいのが期待に応えることである。ぼくは突然書き始めたようなものなので、誰にも期待されることなんてなくて、それなら仮説としての期待を自分にかけて、その期待に対して挑んでみないことには始まらない。

いつか誰かに期待してもらって、こういうことを書いて欲しいと言われるまでは、ただ自分が好きなことを書き散らかしている素人である。ぼくが求める場所はそこではない。「書いてます」と言えるようになるために、今書いている。