新聞

社会人になり、よく新聞を読めと言われる。

まるで当たり前の行動かのように言う。

もちろん僕は新聞を読むことに異を唱えることはない。

読むべきだと思う。


僕にとって「何かがこうなっている」という過程の情報は余り意味がない。

新聞に載っているようなことで、過程を知って、

意見をして、変えることは出来ないのだ。

せいぜい報道関係者にでもならない限り、世間的に僕の意見は無いに等しい。

つまり僕は結果だけで良い。

途中経過を読むことも、議論することも無駄だと思う。


たとえば今の世の中は、「年金問題が私たちに不利な方へ向かっている」とか、

イラクで人質になっちゃった」とか、

ちょっと前では「今の教育は円周率が3になった。」とか。


年金については、決まってから知りたい。


イラクの人質は結局「人質」とは異質のものだった。

人質じゃなかったから、あの3人は反省しないのだ。


円周率は3なんかじゃない。

もちろん3.14で教えている。

文部科学省での議論の過程では、

「およそ3で理解することも間違いではない。

最低でも、3ってことくらいは覚えましょう。」っていう指針である。


事実や議論の結果の方が、遥かに重要だし、

結果から、僕は物事を考えても遅くはないと思う。

昔より今はダメになっている。と言っていては、何も変わらない。

少なくとも世の中は、安定させないように進むものだ。

だから常に各個人が安定するように、四苦八苦しているのではないだろうか。