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価値観を押しつけるとはどういうことか。

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 「価値観を押しつけるな」という愚痴のような叫びのようなものを見ることがある。そう言葉にするということは、そう思って生きているのだと思う。
 ぼくにはその、価値観を押しつけられるという意識が理解できなくて、うまく消化できないでいる。消化しなくても放っておけばいいのだけど、ぼくは、価値観を押しつける人や価値観を押しつけられるという人のことを知りたい。
 煙に巻くようなことをいってしまえば、そういう人は、「価値観を押しつけられている」という価値観を持った人なのではないだろうか。もしくは、環境の問題や外的要因のことを「価値観の違い」と勘違いしてるのではないかと、ぼくは考えている。
 例えば、家庭のなかでの父や母の言葉というのは、ぼくが子どもの頃は、親が勝手に言っていることでしかなかった。父母の人生や家庭の状況は子どものぼくにとっては、生活の前提条件である。お前は私立の高校なんかに行けるお金はないよと言われていたから、その前提条件でやっていて他のことはよく知らなかったし、もしお前は私立の名門に行きなさいと言われれば、きっとその前提条件でやっていたに違いない。もちろん違う人生のことは、今までの自分の生き方の態度をみて、そうなっただろうとしか言えないのだけれど。
 価値観なんて、本当は誰も口に出して言っていない。他人の価値観だと思って見ているものは、その人が他人に見せたい自分の態度のことだ。受け取る側がそれを価値があるものだと感じるから、相手のその言葉に対して価値観を押しつけているなんて思う。支配的な親、支配的な恋人、支配的な配偶者、こういう人はきっと、自分の立場を相手にとって価値のあるものだと信じ込ませる能力を持っている。そして信じ込まされている人、子どもなどはその典型だろう、支配されている人から見れば、支配している相手は自分の価値観を他人に振りかざしているように見える。
 想像するけれど、よくわからない。ぼくがいま話していることも、人によっては価値観ということになるのではないかと思ってしまうし、そもそも価値観という言葉の心理的な定義すら他人とは分かり合えないということが正しいことなのかもしれない。