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毎日何かをやり終えて、充実感を得る。

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 毎日1つでも、完結する何かをやり終えると、ちょっとした充実感を得られる。ぼくは2年くらいランニングを習慣にしていて、最初の1年くらいは毎日5㎞走っていて、今は週1で10㎞走っている。走ることは辛いことだけど、必ず終わりがある。正直なんで走っているのか、理由は分からない。普段外を走っている人を見ると、何やってるんだこの人は、くらいに見ているのに、自分も走っている。理由のない、いってしまえば無駄なことをやるというのは余裕があって、そういう時間があるということ自体が、生きる余裕ととることもできる。そして、暇でもある。
 ランニングに話しを戻すと、10㎞という目標を立てて時間を使えば走ることが出来る。おそらくもっと走ることができるけど、10㎞以上は時間が惜しい気がしてしまう。最初1㎞も走れなかったときのことを思い出すこともできなくはないけれど、難しい。10㎞走っても、それ以上走ってもきっと、1㎞で足が動けなくなるくらいボロボロになったころのような辛さはもう再現できないのだ。1年くらい走らなければ再現できると思うけれど、そのときには10㎞走るという感覚を思い出せなくなるのだろう。

 ランニングだけではなく、何かを継続するということは、変化し続けるということである。それは良く言われることだけど、もう一つは、何もやっていない状態がわからなくなるということでもある。ぼくは走っているからといって、体力があるなんて思っていなくて、毎日6時間寝ていても眠いし毎日疲れる。走らなかったら今以上に疲れていると想像すると絶望してしまいそうになる。走るのをやめられなくなる。でもきっと、やめたら緩やかに体力が落ちていくので、その疲れにも慣れてくるのだと思う。
 どんなことでもそう。体力があるからいいとか、知識があるからすごいとか、比べる意味はないのだ。自分の過去と今を比べることはおろか、他人と比べることにも意味がない。

 いや、意味があるのは学生までだ。学生の人たちは存分に比べられればいい。みんな同じ成果を求められているのだから、個性は絶対的な数値での比較でしかない。そこからはみ出るルール違反を覚えても仕方ない。かつて学生だった人たちがそのルールを変えないのだから、きっと今の学生の人たちも変えないと思う。だから本当は嫌ではないのだ。もしくは振り返ってみると、それほど嫌ではなかったのだ。

 本当にそれが嫌なら、ぼくが本分の仕事をやりながら走ったりブログを修行のように書いているように、自分の人生に関係ないようなことを徹底してやってみるといいと思う。