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何を語るのか。ではなく、どう語るのか。

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 ぼくは自分がやっていることをあまり人に話さない。自分のやってることを意気揚々と話すことを恥ずかしいとさえ思っている。親兄弟にも、自分が何をしたいか、今ぼくが何をしているかを話したことがない。聞いてこないのだから言う必要が無いと思うところもあるのだけれど、世の中は自分が思う以上に、人が干渉し合っていることも知っている。
 いわゆる仕事の愚痴などを話すこともない。友人や同僚に面白おかしく話すことはあっても、深刻なことは自分だけのことで留めたい。何かを振られて話すことと言ったら、仕事なんてしたくなんだけど仕方なくやってるよ、これが常套句だろうか。苦笑されて終わりである。どうしようもないことを話しても仕方ない。
 どうしようもないことを他人にぶつけるなど、傲慢極まりないことなのだ。どうしようもないことを聞いた人は、ぼくの言葉に呪われる。ぼくのことなんて考えていないとしても、呪いの言葉をつぶやく人間を目の前にしたら、心がざわつくだろう。かつて「あなた」とか「君」とか、見えない相手に声をかける言葉が嫌いだと書いたことがあるが、それに通じるものがある。
 そんなことをいいつつ、ぼくは数年前にTwitterを始めてから、自分が思っていることを言葉にしようと考えて、あえて自分にかける言葉として、呪いの言葉を文字に起こす癖をつけてきた。このブログも、もしかしたらその賜かもしれない。しかし、もうそれもどうかと思い始めている。
 色んな人の文章を読むように人なってわかるのが、同じ世の中に生きている人が考えることは大体同じで、捉え方、語り口が違うだけなのだ。何を語るのか、ではなくて、どう語るのか。それが人の個性であり魅力になる。ぼくはこうして書いているとき、その書いていることへの態度が問われているのだと思っている。