禿げていて、いいことはなかった。

 ぼくは禿げている。残念ながら、20台の前半からおでこが広がっていき、やがて頭頂部にいたり、今はもう頭半分より後ろに残っているくらいである。祖父の隔世遺伝、完璧にそっくりなのだ。好きだった祖父だけに恨むこともできず、似ている部分があるといわれる祖父のことを思い出すと思わず微笑んでしまう。もう無駄な抵抗はせずに毎週自分でヘアーカッター(バリカン)を使って、6mmかたまに勢いあまって3mmくらいにカットしている。
 
 しかし禿げているからといって、良いことはないかもしれないけれど、特段悪いこともなかったと思う。幸い、ぼくの頭のことを気にしない女性と出会い、結婚して子供まで授かることができた。世の中には、外見ではなく中身を見てくれる人が本当にいるんだとわかって、逆に勇気が出たくらいで、禿げが人生のプラスになったようにさえ思える。それに毎朝髪型のことを考える必要もなくて気が楽。僕の人生で、禿げは髪の毛を失った代わりに何かを自分に与えてくれていると思う。
 
 と、書きたい人生だった。
 
 だいたい顔を見ることができないインターネットで禿げをカミングアウトするような人間は、何かしら禿げを乗り越えているのだ。そして他の禿げを励まそうとする。
 逆に、自分がうまくいかないのは禿げのせいだという話しはあまり見ない。禿げだから女性に振られたとかモテないとか、ぼくがそうだから目を逸らしているだけなのか、あまり見ない。自分の禿げを認めたくないのか、そもそも恋愛というものを諦めて、まったくしないのか。はたまた仕事などもがんばらないのか。禿げというのは、自分の人生をどこか遠い目で見ているような人になってしまうのだろうか。

 ぼくはといえば、禿げているせいで仕事くらいしかまともにできることがなくて、恋愛やその他の人生の、うまくいっているように思えない。それは禿げている外見のせいじゃなくて自分の心のせいだと言われるかもしれないが、それは逆で自分の心が外見を作るのだと思っている。自分の中身と外側の境界である外見は、心の表面である。醜い心が醜い外面(そとづら)を作ってしまい、外面は外見に表れる。もし本当にぼくの外見が醜ければ、ぼくの外面(そとづら)が醜く、心もなにもかも醜いのだろう。

 しかし今のぼくは、まだ醜さに抗おうとしている。汚い格好をしたり人に怒り狂ったりして世界に喧嘩を売るようなことはしないし、仕事を辞めて世捨て人のようになったりもしない。これがいつまで持つかわからないけれど、それまでは生きていたい。