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会社にいることの不思議

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 いまいち消化できていないことを書いたので支離滅裂な部分もありそうだが、定点観測として残しておこうと思う。

 ぼくはもう会社につとめて10年くらいになるが、今でも会社にいることが不思議なのだ。会社にいることを表明したいがために会社にいるのだとさえ思えてくる。そう考えると馬鹿馬鹿しくなってくるのだけれど、それ以外選択肢がないと思い込んでいるところがある。

 人はいつも何かを考えて生きているのだけれど、なぜそのことについて考えるかについてはあまり考えない。そういうぼくも、自分が考えることは、ずっと前から考えてたことが基本となっていて、どこか揺るぎない土台の上に立って考えている。しかしその土台はいつどうやって出来たのだろうか。 
 たとえば会社に勤めるという形態での働き方について考えてみたとき、ぼくなりの考え方がある。会社の人とはそういう話しをしたことがないのだけれど、それはおそらく不毛だとわかっているからだろう。会社では、会社にいることに疑問を持ったりすることは、ある意味タブーなのだ。
 今の会社の形態、自分の能力とは関係なく働くことが許されるかわりに、会社からどんな仕事を命令されても従う契約していることになっている。こんな会社の形態がいつまで続くか分からないけれど、ぼくが生きている間はそう大きく変わらないと予想している。そんな風に働いてもらう給料の額は、会社の不利益にならない程度に健康的に生活できる給料を与えられる。仕事の内容が継続的な勉強や鍛錬が必要なものであればその分の費用も上乗せにすることで、もっと成長して会社に利益をもたらせと暗黙的に命令することができる。
 そのほか転勤を命じられると、社員は家族と共に生きるということができなくなることが多い。これを不可思議に思わないのは社会がそれを受け入れてきたからに他ならない。良い悪いの問題ではない。会社員たちにはどうすることもできないのだ。極端なことをいえば、日本人は宗教を悪いものと意識づけされるかわりに会社を与えられた。これによって会社から給料をもらう(もらわなければ生きられない)という信念(洗脳)のため家族を捨てることができるようになった。それを受け入れる妻や子供も、転勤する夫と同じだ。これとそう変わらない理屈で戦争時の多くの日本人も、国のために戦争で死ぬことについて不思議に思っていなかった。

 話しが飛んだ。

 ぼくは会社に向かって「こういうことがやりたいんです」と言ったことがなく、またやりたいと思うことがあまりない。それはどうしてだろう。なるようになればいいし、もし転勤することになったときに家族がいたとしても、一緒に連れていけばいいくらいにしか思っていなかった。しかし現実にはそれが難しい仕組みになっている。こういう自分を今まで働くことが嫌いな性格によるものだと思っていたのだけれど、もしかしたらどこかで学んだのかもしれないと考えるようになった。
 疑問に持ち始めたのは最近で、それは社会制度や資本主義について学び始めてからである。元々大学に行っていたころから、会社に勤める気などなく大学に残りたいと思っていたし、それでも当時はそれなりの理由があり今の会社に入社するのだけれど、やはり違和感はぬぐいきれないままである。
 本当は会社を中心とした働き方のことなんてどうだっていいのだけれど、今はどうだっていい立場にいないので、これからも考えていくのだろう。この辺をうまく語れるようになり、かつ自分の活動を広げることができれば、すこしは生きるのが面白くなるだろうか。