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空気のような存在

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 人と関わるということは、自分になにかしら影響するということだ。気心が知れていたり、いて当たり前のような、いないと生きていけないといったような、「空気のような存在」だとしても、「空気」として「存在」する。

  ぼくはこの「空気のような存在」といい方は、究極のわがままだと思っている。自分の寂しさを、「空気」のような、気にせずとも当然あるべきもののような「存在」によって埋めようとする。自分に対して何かしら感情を持つ人間を、無感情の存在に仕立てあげる。
 親であれ恋人であれ妻や夫であれ、空気のような、自分に一切危害を与えずに、しかし、なくてはならないような存在になんてなれるわけがない。空気が何かを思い、ふっと消えてしまったら、空気を必要とする人間は死ぬことになる。人のことをそんな存在にしてしまうことは、「依存」というほかない。
 「わたしが好きな人……えっと、空気みないな、居心地のいい人がいいな」なんて言っている女の子を前にしたら、この子は家族にさえ存在の不快を受け入れるように育っていないのだと目を細め、10秒でいいから君の周りから空気が消えてしまえと思う。空気だって意地悪をするんだと教えてやりたい。
 他人は自分を不快にする存在である。不快というのは、思い通りにならないということである。思い通りにならないことを不快と思うかは、育ちや性格によるものだと思うけれど、純粋に他人という存在を自分ひとりであることの対比としては、不快という言葉が合っているだろう。
 不快である気持ちを、悪いものだと思うかどうか。嫌だと思うかどうか。ぼくは、他人といる不快が、許せる相手と許せない相手がいる。さらにいえば、その不快な状態が自分にとって楽しいか、気持ちいいかだろう。それが人間関係である。