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自信を持つ。

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 ぼくは自分が鈍感であり、感受性が薄い人間だと思っていたところがある。人のいうことを聞くという習慣がなくて、それは相手を敬う気持ちがない、薄情な人間だからだと、昔は自分の母にもよく言われていたことを思い出す。それも、小学生とかまだ小さい頃から。ぼくとしては、ふーんと思っていただけで、間違っているとも変わろうとも思うことはなかった。というか、間違っていると言われていないし、変わるためのモデルもいなかった。
 親というのは、子供にとっては、ひとつロールモデルともなるだろう。ぼくと弟を人間を産み出し、ぼくや弟のように育てた人たちである。あたりまえだけど、それを間近に見られたのはぼくだけなのだ。自分も人の親になったときは、自分の知っている自分の親を参考にするのだと思っているけれど、本当に自分の親のように、ぼくのような悪くも良くもない、一人の普通の人間を育てられるかどうかはわからない。その機会も自分で手放してきた。つまり人間としての役割を受けつけてこなかった。鈍感で感受性が薄く、それが故に深く悩まずに、自分が傷つくことから逃げきたのだろう。
 このようにぼくは自分のことを、良くも悪くもない普通の人以上には捉えていなかったわけだけど、それでもなにか、理由のない自信があったのだと思っている。自信というものは、説明できるものではないこと気づいたことから、あれもこれも自信があったから今のぼくがいるんだとわかってきたのだ。つまり自信がある・ないというのは、結果の振り返りであって、今このとき自信があるから行動するとか、そういうものではないし、狙って身につけるものでもないのだ。
 自信とは、物事を考え抜いていく姿勢が積み上げていくもの。そのために勉強して、目の前に起こっている表面的な事実の先にある答えに辿り着こうとすること。ぼくの感受性や、情動を向ける先は、表面上のものではない。人はそれを天邪鬼ともいうかもしれないし、そう言われたこともある。しかし、だからこそぼくは、自分の行動に自信があった。本質を突いてこない表面的な指摘であれば、いくらでも受けられるし、表面的な態度を変えることには抵抗がない。普通のことも、自信をもってやっているのだと思う。