短歌を詠む。選歌が楽しい。

 ぼくはときおり短歌を詠んでいて、昨年、勢い余っていくつかのコンクールに応募していた。その勢いが落ち着き、次の展開はと考えていたところ、インターネットの歌会というものを見つけた。元々歌会には興味があったのだけど、組織というかコミュニティに入るのは敷居が高くて、躊躇していたのだ。そんなときにインターネットだけで参加できる歌会を見つけて、これならできそうだと思い、参加をしたのだった。この参加している歌会はクローズドに行われるということもあり紹介しないことにするが、毎月定期的にメールによる歌会が開かれていて、1週間毎に、歌詠み、選歌とコメント、結果公開という感じで進んでいく。

 歌詠みのときにはテーマとなる語句が決まっていて、その語句を使って短歌を詠む。ぼくにとってはこれが曲者で、このテーマがあることにより、語句に対する世界の狭さを毎回痛感するのだ。1週間ことあるごとに短歌について考えるのだけれど、なかなか言葉が出てこない。世界観も作れない。この短歌が詠めないという状態は、昨年、短歌を知ったばかりで次々と詠めていたころにはない感覚で、短歌ならいくらでも詠めると思っていたのは幻想だった。自由に書くと、自分のなかにあるものを取り出して使うことができるけれど、それは自分のなかにあるものしか使おうとしていなかったのだと気づく。今は言葉が限定されると、世界観も限定されてしまう。ぼくの持ちうる世界観はそれほど広くもなかったのだ。

 改めて短歌の勉強をしながら歌詠みと選歌をしているのだけれど、選歌というものにも最近慣れてきた。自分が詠んだ短歌がいまいちなのはおいておいて、人が詠んだ短歌を味わう。正直今までは他人の短歌を真剣に詠んでいなかった。人が詠む短歌にも、いまいちなものがあるけれど、これはいいなあと思う短歌もあり、その短歌にコメントを書いていく。このコメントを書くのが思いのほか楽しくて、他人の短歌を味わうことが好きになってきたのだ。ぼくなりの解釈を書いて、想像を膨らませる。短歌は31音の制限があることから、自分なりに想像して解釈ができることも醍醐味なのだと思う。基本的には他人のコメントを作者が咎める理由はない。選歌では得点がつき、得点は参加者の心にどれだけ響いたかのバロメータになるが、ぼくは今のところ点数をもらったことがない。今は短歌の修行とともに、コメントの面白さも追求してみたい。作者も歌会に参加している人も喜んでもらえるようなコメントを書いていきたい。