書き手と読み手

 書き手が自分の書いたものを理解することと、読み手が他人が書いたものを理解することは、動作が異なれば思考回路も違うのだから、相入れるはずがない。
 ぼくは自分の考えを示すとき、どこまで書くことが正しいのかわからなくなる。むしろ、自分の考えをなど書かないほうが良いとさえ思うこともある。こんなことを思いながら書いているのだから、もうしかたないのだけれど。
 なぜぼくが考えられるかというと、考える時間があり、知識を持ち、言葉を知っているからである。それでも、書こうと思っている段階からは想像し得ないくらいに、考えていることを書き言葉にすることは難しい。普段言葉にしないようなことを文章にしようとしているから、余計に難しいと感じてしまうのだろうか。
 ぼくが考える時点で他の人とは前提条件が異なっている。書いた人とそれを読む人は行為そのものが違う。当たり前なことなのだけれど、そういう状態で自分の考えを示すことが、本当に良いことなのかもわからなくなってくる。
 まあでもきっと、別に構わないのだろう。
 書く人と読む人は同じ土俵で対峙させるべきではないのだ。同じように書いている人であっても、ぼくの書いたものを読むときは、読む人になる。書く人がいるから読む人がいるのではなく、書く人と読む人は独立して存在する。独立した必要性で成立している存在だ。いってしまえば、書きたい人はそれを読む人がいなくても書くのだろうし、読む人は書き手に求められなくても勝手に読むのだろう。