人生をやり直すことができる世界の現実 /「僕だけがいない街」(三部けい)

 ぼくは時間を行き来する漫画や小説を好きになることが多いのだけれど、先日新刊が出た「僕だけがいない街」もまた、その時間逆行ものである。

 「僕だけがいない街」は、主人公に「再上映(リバイバル)」と呼んでいるタイムスリップが起こることが最初からわかっている。「再上映」が起こると目の前の事件を解決することができるため、逆に「再上映」が起こると、何か事件が起こっているということになる。そうしているうちにやがて、主人公にとってどうしても解決しなければならない事件を「再上映」するようになる。
 主人公を突き動かすのは、主人公の親であったり、その親と仲良くなるバイトで出会った女の子だったり、親に虐待されて殺される幼い頃の女友達だったりする。主人公はかっこいい母親が好きで、母親は子供を愛していて、この物語のきっかけは、その主人公の母親の身に起こった事件である。主人公が子供のころを「再上映」しているときの母親への態度には、ところどころ涙が出そうにもなる。また幼い頃の女友達を虐待していた親も、子供の頃を「再上映」した主人公が、ある問題を解決することがきっかけで、それまで受け取れていなかった自分の親からの愛情に気づく。
 
 人生をやり直せたら、ということを考えることは多い。あのときこうしていたらという後悔は山のようにある。しかしぼくが本当に人生をやり直せたとして、今思っているやり直したいことがもう一度目の前にやってきたとき、その問題を解決できるだろうかと考えてしまう。それは解決できる力があるかどうかというより、そもそも後悔していることを、もう一度やり直して向き合いたいかどうか、解決したいかどうかということだ。ぼくが想像してしまうのは、もしやり直したいことがもう一度目の前にやってきたら、その問題を避けようとするのではないだろうか。言い方を変えれば、後悔しないようにするには、問題そのものにぶつからないければいいと考えるのではないだろうか。
 とっても情けないことをいっているような気がするけれど、現実、ぼくは後悔するくらいなら、違うやり方で違う人生を送りたかったと思っている。そしてそうやってやり直したとしても、今度はまた別の問題にぶつかるということは、容易に想像がつく。そのときはまた全力を尽くして後悔をするのだろうか。
 
 人生をやり直すということは、歴史を変えることであり後悔しないように生き直すことではない。「人生をやり直すことができる世界の現実」は、同じことを繰り返すこともあれば、全く違う問題にぶつかることになる。結局、生きることの問題からは逃れられないのだから、人生をやり直せる可能性がある世界は、人生をやり直せない世界よりも苦しいものかもしれない。