人の悩みとはなにか。悩みをどう解決すれば良いのか。

 先週から宇野常寛のメルマガで哲学者の國分功一郎による人生相談の連載が再開された。以前の連載も、その連載をまとめた本も読んでいて、いつも感心していた。相談内容はありがちな家族、恋愛、仕事、進路などの辛い内容の相談が多いのだけれど、一貫しているのは、みな「自分のこと」に悩んでいるということだった。
 ぼくは悩み相談というのを受けないし、相談の仕方もわからないでいたのだけれど、こうやって人の悩み相談を外から見てみると、人の悩みとはどういうものかというのがわかってくる。そしてぼくも同じようなことに悩んでいることにも気づく。
 誰も他人のことなんて悩んでいない。自分のことしか考えていない。アドラー心理学と合わせれば、「人生の悩みは全て対人関係」であるというのも正しそうだ。アドラーはさらに「他人は自分のことなんて考えていない」ということも言うけれど、まさにそのとおりだ。
 対人関係について、そもそも「自分のこと」を考えるのは、他者が存在するからなのだ。対人関係がなければ「自分のこと」が一切なくなる。自分のことを考える必要がないし、自分のことを考えるなんてことを思いつきもしないはずである。「自分」という概念がなくなるといってもいい。想像するに、対人関係がなく自分しかいなければ鏡も見ないだろうし、腹が空いたりという本能を満たすためにだけ生きることになる。岸田秀の「人間は本能が壊れている状態」というのも納得できる。
 まとめると、人間は対人関係のなかに産まれ生きる宿命があるために、最初から本能が壊れている。そして生きる過程において、ときに立ち行かなくなることがあり、悩んでしまうのだ。
 具体的な悩みに対して國分功一郎はまず、「言いたいことを言え」ということが基本になっている。本音を言って壊れる人間関係なら、その関係から解放されるという解決に向かう、という。「言いたいこと」とは、悩みごとをいうのではなく、「こうだから私は辛いんだ」ということをきちんと伝えるということである。
 多くの人が、自分が思っていることを誰にも言えない、自分の思ったように行動できない、つまり本能のまま生きられないということに悩んでいる。もちろん本能はもっと奥深いものではあるけれど、表面上に見えてくる本能は話したり行動するということに他ならない。そして、言いたいことを言うためには、勇気が必要だ。「自分が幸せになるために必要なのは、幸せになろうとする勇気だけだ」というのが、アドラーである。言いたいことを言う、というのは、その最初の一歩なのではないだろうか。
 悩みを解決するためには勇気が必要で、その勇気は自分が持つしかない。だけど、勇気は他人によって増幅させることができるし。他人は自分のことなんて考えてくれないけれど、自分から悩みを打ち明けたりすることで、勝手に勇気をもらうことはできる。
 ぼくはさきほど書いたように、言いたいことを言えないけれど、だからといって悩んでいるかというと、どうなのか分からない。自分のなかで消化してしまうことに慣れてしまっているだけなのか、もしかしたら、すでに言いたいことを言っていることに気づいていないのかもしれない。それにぼくは悩み相談もあまり受けたことがないと思っていたけれど、もしかしたら悩み相談を受けていても、それに気づかず何もしてあげられてなかったかもしれない。だからもっと、人の悩みというものに敏感になりたい。