自己承認の行き着く先は"虚無"である。 /「死からの生還」(中村うさぎ)

 「虚無」という言葉。ぼくもしばしばこの単語を使って、言葉にできない虚しさを表現しようとしていた。中村うさぎの「死からの生還」で、「自己承認の行き着き先は"虚無"である」ということを読んだとき、あー、これか!と、自分が使っている虚無とはどういうことかに気づいてしまった。

 ぼくは自意識過剰なところがあって、だからこんなブログを書いているんだということも含めて、自分のことばっかり考えているのだ。そんななかでもごく稀に、外に開いた文章を書くことができるときがあって、そのときを待ちながら、内省に耽っているようでもある。

 昨日ぼくが書いた「ストイック」については、中村うさぎは自分の欲望を我慢することをストイックとすることの気持ち悪さについて書いているのだけれど、ぼくはもっとたくさんのことに集中したいという欲望に対してストイックなのか、1つのことに集中しないようにストイックに我慢しているのかを考えた。

 欲望に対してストイックに我慢していると、自分の人生を生きられなくなる。これは自分自身を振り返ると、20代がまさにそうだったと思う。生活の変化によって目の前のことに精一杯だったという常套句を捨てれば、ぼくはとにかく自分のことを後回しにしていたと思う。周りに振り回されていたと人のせいにするには時間が経ちすぎているので、ある時期に異世界にワープしていて、帰ってきたら10年経ってたみたいな、すこし無責任にいえばこんな感じになるので、やはりぼくは自分の人生を生きられていなかった。

 そして今、見失った自分が戻ってきたことにより、意識の矛先が自分自身へと変わってしまったとしたら、これもまた間違っているということだ。

 自分だけ、誰かだけを見るのではなくて、周りにいる人や興味をもった人を素直に見て、知って、頼って、頼られるべきなのだ。なにをあたりまえのことと思うけれど、ぼくにはそれができなかったのだから、意識して外を向かなければ変わることができない。

 一生懸命自分自身に逃げて確実に虚無に追いやられるか、一生懸命自分の外に出て拒まれない他者との出会いに期待するか。頼ったり頼られたりするという点で、自分という存在は他者なのだろう。自分を含む人との関係の行き着く先が、無か有か。人間だったら、有を選ぶべきだ。人はひとりでは生きられないのだから。