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「孤独」について

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 人は「孤独」について、きちんと説明できない。それはぼくも同じで、客観性や社会性を突き詰めると、日本において本当の意味の孤独などありえないという客観的な姿があるからである。しかしそういった、本当の意味で孤独はないという反論をされてしまうと、孤独感を口にする人間は、救われることなどなく、余計に自分の孤独感に対する孤独感を高めるばかりなのだ。

 これから書くのは、ぼくの「孤独」である。辞書的な意味での「孤独」を解説するものではないし、論理的な説明などできないのだが、こういうのもありなのではないかと思ってもらえればいい。(この記事以外も全てそういうスタンスで書いているけれど)

 自分の人生は自分で責任をとらなければならない。そんなことはわかっているよという気持ちと、人間という、他人との関係性で生きるものとして、自分のことを一人で抱えるというのは、人間的とはいえないのではないかという本能の欠落のようなものを感じる。しかし本能の欠落などを望む人間などいない。本能の欠落だとか、人間としての欠陥だとか、そんな風に思いたくないから、一言、孤独という言葉があるのではないかと、ぼくは考えている。

 孤独の反対を意味する言葉とはなんだろう。集団、群衆、二人、三人、孤独ではない、どれでも構わないが、孤独という感覚を解消する言葉はどこにも見当たらない。集団や群衆などの言葉は客観的な状態を表していて、孤独は主観的な状態を表しているような言葉であると考えると、そもそも孤独の反対を意味する言葉は存在しないのかもしれない。もし言葉に代わる何かがあるとしたら、孤独ではないという自分の感覚だけ。

 「俺は孤独である!」と言葉で叫んだとしても、いや、君は会社で沢山の人と関わって生きているじゃないか。友達だっているじゃないか。という反論がくるだろう。ぼくを含めた誰も理解しない、孤独という言葉への感情は互いに交差することがない。まさにこの状態が孤独だといえなくもないけれど、むしろ虚無感という言葉が似合う。ああ、誰にも伝わらないんだな、という感じ。

 孤独を救う誰かがいるというのは、本当だろうか。孤独は誰かが救うもの、自分ではない誰かが救ってくれるもの、そう考えることに、ぼくは違和感がある。それは、人間としての群れの本能、群れの最小単位としての友人や恋人、家族という関係を求める感情を、なんらかの要因によって阻害されている状態が孤独であると考えているからである。

 言葉を換えると、孤独であると言うことは、孤独を求めてしまうという状態といえるだろうか。本能が壊れた(壊した)、逃避行動ともいえる。

 だから孤独はいけないものだと言いたいのではない。孤独にならざるを得ないことがある、だからそれは不思議なことでも間違っていることでもなくて、また、救われるべきことでもないものだということを、ぼくは言いたい。