評価に振り回される前に、毎日なにかをやろう。

 物事には評価がつきものである。100点、100%と評価を量で考えたり、○○より△△、△△より××、と比較することで、物事の程度を評価をする。本当にそれらを数値化し評価することに意味はあるのか、意味はあったのかと、思うことがある。たとえばテストの点数は、0点から100点で評価される。出題されるいくつかの問題があって、その中の答えが合っていた分だけ得点がつく。

 しかし世の中はテストのように、数値的に評価されるものばかりではない。むしろ、数値的に評価されることのほうが少ない。数値的に評価される人は、特定の能力に優れた、いわゆるプロフェッショナルの人が飛び込む評価の世界である。例えば、野球であれば打率や防御率、サッカーであれば得点することや得点されないこと、作家であれば出版部数や評判の量、またプロ全般として、契約料金も数値の一つだろう。契約料なら会社員も同じだと思われるかもしれないが、会社員の給料は性質が違う。会社の給料は個人をみているわけではなく、給与制度に基づく利益の分配なのである。だから個人がいくら営業成績を上げて会社に貢献したとしても、給料が営業成績分上がるということは絶対にない。

 数値や量による評価の世界に入ることは、とても苦しいことである。数値に追われる負担に耐えうるだけの精神力を持つか、数値が気にならなくなるくらいに安定的な立場に身を置くか、もしくは精神的に数値を超越してしまうことでしか、人は数値や量による評価の世界で生きていけない。

 それでも人は評価することをやめないし、評価するときには、数値や量に頼って、さらには足りないことを探すことで減点評価をしてしまう。

 それでは自分のなかの色々をどう評価すればいいのか。評価をするという前提で考えるとするならば、それは、何事も0か1(ゼロかイチ)で評価をするべきだと、ぼくは考えている。中途半端な評価はないのかと言われれば、ないほうが良いと答える。なるべく、1まで何かが足りないとか、減点評価をしない。中途半端な評価をするから、人は悩んでしまう。

 つまり中途半端な評価をしない工夫をすることで、評価の負担が軽減される。具体的には、評価の過程を細かく区切ることである。大きな成果を得るために、小さな成果をたくさん上げることを考える。そしてその小さな成果に対する行動に、0か1かの評価を与えていく。0であればやり直し、1であれば前に進む。やり直しができることをやり続けることが負担を軽くするために、失敗しても苦しまなくなるまで行動を小さくしていくことが大切なのだ。

 そのためにぼくがやっていることは、毎日なるべく同じことをやるということ。毎日やることにしていれば、なにかのきっかけで1日できなかったとしても、明日やればいいと思うことができる。逆に、いつかくる休日に向けて計画したことが、何かの事情でやれなかったら、その事情を許せなくなったり、次のチャンスを待たなければならなくなって、やる気がなくなってしまうこともある。

 ぼくは、何かを書くということについていえば、毎日ブログを書きつつ、短歌や小説を進めている。新しいアイディアが出て来なくても、ブログを書くことで短歌や小説に必要がない概念を外に出していく。何かを書き残すことで、書いたことが失敗だと思えばもう同じことは書かなくなるだろうし、将来ここに書いたことを元に新しい何かを書けるかもしれない。

 そもそも毎日書くことで、かつてあった「ブログを書きたいけど書けない」という負担がなくなり、評価をしなくなっているというのもある。これは、「継続は力なり」の一つの効用かもしれない。

 ということで、もし評価されたいことがあるならば、毎日そのことについて何かできるように工夫はすることを考えてみたら、どうでしょうか。