普通に生きたい。 / 「極黒のブリュンヒルデ」(岡本倫)

 岡本倫ヤングジャンプで連載している漫画「極黒のブリュンヒルデ」のアニメが始まった。
 
 この作品に限らず、漫画や小説の面白さを伝えたいのだけれど、どう言葉にしたら良いのか、いつも悶々としている。とにかく面白いから!って言っても、当然その面白さは伝えられない。だからといってAmazonに書かれているレビューみたいなものを自分で書きたいとも思えない。
 
 本題に入ろう。
 
 「極黒のブリュンヒルデ」は、岡本倫の作品でいうと「エルフェンリート」の流れにある。岡本倫もそういう要望が強いから描き始めたと言っている。「エルフェンリート」はリアルタイムには知らなかったのだけれど、連載当時にアニメ化されていて、グロいアニメとしても一部では有名だったようだ。また、連載が終わっていなかったことから、物語は途中で派生して、漫画とは異なる完結の仕方をしている。「極黒のブリュンヒルデ」も予定されている13話の間で連載が終わるような気配はないため、どこかで物語はアニメとしての完結に派生していくものと予想している。
 
 「エルフェンリート」と「極黒のブリュンヒルデ」は、とにかく女の子が酷い目にあっていく。女の子が極端にマイノリティな存在というか、差別される側に立たされる。その差別を明確にするために「エルフェンリート」では新人類とされる角が生えた人間の亜種、「極黒のブリュンヒルデ」では人間に改造された魔法使いという設定になっている。普通の人間(の体つきや感情を持った者)としての女の子と、極端に差別される人間が交差する姿のギャップに理不尽さを覚え、またその理不尽さに対する感情に引き込まれる。どちらも戦闘シーンが多く、戦いの度に絶望を味わい、すこしの休息に小さな希望を灯す。
 
 物語を通じた絶望と希望の間に「普通に生きていたいだけなのに、どうしてそうさせてくれないのか?」という心の叫びが、延々と語られているようである。そして「エルフェンリート」は、家族という物語が並行する。「極黒のブリュンヒルデ」はなんだろう。友情、もしくは恋や愛だろうか。最後まで見届けずにはいられない。
 
 ここでぼくが思う特徴的でかつ心に残っているシーンを紹介してみよう。これは「極黒のブリュンヒルデ」の7巻での話である。
 
 ある魔法使いは普通の友達ができたと思った。「全人類の中で一番の友達」とまで言ってくれるような友達だった。しかしある日、その魔法使いは友達の目の前で他の魔法使いに身体を真っ二つにされる。友達は何が起こったのか理解できず混乱しながらも、「死んじゃやだよ」と叫ぶ。ところがその魔法使いはそんなことでは死なない生物だった。いつも通りに身体を自己修復して起き上がる。それを見て友達は、「気持ち悪い!」と叫び、恐れをなして逃げていってしまうのだ。
 
 人間は、人間ではない気持ち悪い存在を認めたりしない。「死んじゃやだ」という思いは、生きるか死ぬかの、自分の中での理解の範囲内でしか適用されない。常識では死んでいる状態で本当に生き返ることは、理解を超えた気持ち悪いことなのだ。
 
 自分は普通ではないと思う人がいる。普通では嫌だと思う人もいる。ぼくも場面場面においては、そう思うときがある。しかし、自分で考えることができる「普通ではない」は、他人の理解を超えることはない。もちろん他人の理解を超えたいとも思っていない。なんのために自分は普通でない人間になりたいと思うのか。人に疎まれたり、差別的な態度をされたときの免罪符にでもしたいのだろうか。ぼく自身は、そうだと思う。
 
 ぼくは自分が他の人と違うと設定することで、他の人を疎んでいないだろうか。差別的なことを考えていないだろうか。そうやって勝手に人を突き放しておいて、自分は孤独だと悲しみに暮れたりしていてはいけない。
 
 差別や孤独をなくして生きていく術はきっと普通に生きることで、普通に生きられるということが、幸せなことなのだと思う。そしてその普通とは何かというと、概念的ではあるけれど、自分がいる「いまこの瞬間」が、一人でも誰かといてもたくさん人がいても、その中で調和されていることなのではないかと思う。
 
 
 最後に、岡本倫の作品でメジャーなものといえば、スキージャンプを舞台にした「ノノノノ」がある。スキージャンプが舞台だけれど、主人公の女子が男装をして男子スキージャンプで競技するという、女の子が大変な思いをする物語となっている。最後は力と力のぶつかり合いがインフレを起こし駆け足で話しが進み、作者の不完全燃焼で終わってしまっている。(ちなみに、この前の冬季オリンピックから、女子スキージャンプが競技として加わっている)