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子どもを終えるとき / 「父の生きる」(伊藤比呂美)

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 ぼくは、人が死にゆく姿が描かれる本に惹かれる。死ぬ本人が自分の死ぬところまでを書くことはできないから、死を通り過ぎるのは、妻や夫、子どもなどになる。死の目の前に生きている人を通して、人が死ぬことを知り、人が死ぬということへの思いを知る。

 

 本に書かれるような語られる死の状況は、ぼく自身のこれからを考えると、ぼく自身のその準備にはならないが、死に夢を見ることはできる。「孤独死」とは死んだことが発見されないことをいう。基本的には人はひとりで死んでいくものだ。死ぬときはひとりだけど、生きているときに人と居ることができたならば、人生は孤独でなかったということができるのかもしれない。

 

 「父の生きる」の著者である伊藤比呂美の父への思い、父に対する行動からして、愛情の塊のような人なのだけれど、それでも本人は、もっとできることがあったと後悔する。ぼくは伊藤比呂美の父の死よりも、伊藤比呂美の思いに心を打たれる。生きている人の幸せや苦悩は、人に対することでしか生まれない。そしてその浮き沈みが人を人として成長させる。

 

 伊藤比呂美は、母が亡くなり父が亡くなったあと、「なんだかやっとおとなになり終えたような気がした」と言う。それまでは子どもだったという実感が、ぼくの思いにも反芻する。ぼくは両親が健在で、今ぼくが死んだら、彼らを悲しませることになり、彼らしか悲しむことはないだろう。だからぼくは、まだ子どもなのだ。

 

 両親がいるから、ぼくの今のこの孤独は、完璧ではない。両親を、ぼくが孤独でないことの最後の砦にしている限り、ぼくは両親がいなければ生きていけないと言わざるを得ない。だから、ぼくはまだ子どもなのだ。そして、子どもを終えるときが来たときにしっかりと立っていられるように、自分の足で人生を歩んでいかなければならない。